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どうしてみんなから慕われるのか [仏教]

 昨日(11月10日)、京都の叔母の葬儀・告別式・初七日法要に行ってきました。

 僕は叔母とは、妻と結婚してからの知り合いで、しかも、大体は法事の席で会うくらいでした。一度、夫婦で京都で学会があるときに、宿が取れずに2、3日泊めてもらったこともあります。葬儀に出席した他の親族は、叔母の兄弟だったり、その連れ合いだったり、その子どもたちであったりと、僕よりもずっと長く叔母と接してきた人たちばかりでした。

 兄弟の中で一番年上だった叔母は、そういう長女の典型のような人柄で、いつもにこにこして、強い自己主張もせず、しかし、ちゃんと自分の意見を持ち、自分の道を追求してきたようです。かなりの高齢になるまで、旅行にもよく出かけていました。今年に入ってからもどこかに行ったそうですし、そういえば、僕が最後に会ったのは、今年の6月に京都で法事があったときでした。葬儀の部屋には、今年の作品で賞をもらったという縦1.5m、横1mくらいの日本画が置いてありました。書道もやっていたそうです。中でも一番古くからやっていたのは、民謡だったそうです。その民謡をやっていた仲間が告別式に参加して、弔辞と弔歌を捧げていました。

 弔辞を述べたのは、その民謡の先生でした。目が不自由らしく、別の人に連れられて、焼香をされ、叔母に呼びかけるように話されました。目が不自由なので何も見ずに、しかし、実に正確に出会った日時、それは25年前の8月7日のことで、それから12年間、叔母はその先生のもとで民謡を勉強し、それから別の先生について勉強したそうです。叔母がどのように民謡に取り組んだか、あるいは発表会でのこと、後進の育成のこと、などの思い出を叔母に向かって語りかけていました。僕の知らない叔母の姿に、そしてそれを本当に愛おしそうに切々と訴える、その民謡の先生(因みにおじいさん先生です。)の言葉に、僕は、思わず目頭を熱くしました。

 先生は、そのあと、別の仲間の尺八の伴奏で、叔母へ贈る言葉、そして死んでいった叔母が残されたものに贈る言葉という内容の民謡を歌いました。民謡にもこういうメッセージ性があるのを、初めて知りました。

 叔母は民謡の唄だけではなく、三味線の勉強もしていました。その三味線の先生(こちらは女の先生です。)が次に三味線を弾いて、別の男の人が唄い、三人のおばさんが合いの手を入れる、民謡も披露されました。その三味線の先生は、叔母の部屋にやってきて、三味線を教えていたそうです。こうやって仲間の人たちがみんな心から叔母を慕い、逝去を悼み、その気持ちを唄に託して叔母に捧げている姿は、本当に感動的でした。

 叔母はどうしてこんなにみんなに慕われていたのでしょうか。それは叔母の性格が人を幸せな気持ちにさせていたからではないかと思います。叔母と接すると、マイナスの感情が薄められ、自分の中のプラスの感情が引き出されてきたからではないかと思います。それが叔母の「功徳」になっていたのです。

 相手に対して微笑んだら、怒り出す人はいません。微笑まれたら、それによって自分の心の堅い部分が溶かされ、温かく幸せな気持ちになるでしょう。優しくして怒る人はいません。優しくすれば、そのことで何らかのプラスのことが返ってくるのです。それが善因楽果、つまりいいことをしたら、幸せな結果がやってくる、ということの意味だと思います。もちろん、なかなかそういうことはできるものではありません。僕には無理かもでしょう。しかし、そういう気持ちは少しでも人に伝播していくものなので、叔母の人生の一端に触れて、僕の中にも功徳を積む種が植えられたように思います。


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ishid K.

 2002年(平成14年)に、曹洞宗の高祖・道元禅師の750回大遠忌「慕古」(もこ)が開かれました。今年で753回忌です。高祖を仰ぎ見ましても、慕われる人物には、その人物の業績とともに、人間としての魅力があるのだと思います。道元禅師の人柄は、弟子の懐弉が道元禅師の言行を纏めた『正法眼蔵随聞記』に見られます。『十二巻本正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」(『修証義』第四章「発願利生」)に次のようにございます。長文の引用ですが、( )内は、私の補足です。この「四摂法」のように、些細なことからでも、他者を思いやり実践する気持ちを持っていたいと思います。
  「衆生を利益すというは四枚(四種)の般若(智慧)あり。一つには、「布施」(施すこと)。二つには、「愛語」(思いやりのある言葉をかけること)。三つには、「利行」(他人のためになる行為をすること)。四つには、「同事」(一致協力して事に当たること)。是れ則ち薩埵(菩薩)の行願なり、其の「布施」というは、貪らざるなり、我が物に非らざれども布施を障えざる道理あり、其の物の軽きを嫌わず、其の功の実なるべきなり、然あれば、則ち、一句一偈の法をも布施すべし、此生(=いまの世)、他生(=来世)の善種となる、一銭一草の財をも布施すべし、此世、他世の善根を兆す、法(仏の教え)も財なるべし、財(教えを支える財)も法なるべし、但、彼が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり、舟を置き、橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業、固より布施に非ざること無し。「愛語」というは、衆生を見るに、先ず、慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子(慈悲の心で、すべての生き物を、赤ん坊を可愛がるように見る)の懐いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面いて愛語を聞くは、面を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず、愛語、能く廻天の力あることを学すべきなり。「利行」というは、貴賤の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見、病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯、単えに利行に催さるるなり、愚人謂わくは、利他を先とせば、自らが利、省かれぬべしと(他人の利益を優先すると、自分の利益が損なわれると普通の人は考える)、爾には非ざるなり、利行は一法なり、普く自他を利するなり(しかし、そうではなくて、他人に対して行なう有益な行ないは、自分も他人もともに幸せにするのである)。「同事」というは、不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり、譬えば、人間の如来は、人間に同ぜるが如し、他をして自に同ぜしめて後に、自をして他に同ぜしむる道理あるべし、自他は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざる(海が川の水を拒まないこと)は同事なり、是の故に能く水聚りて海となるなり。大凡、菩提心の行願には、是の如くの道理、静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ、済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん功徳を礼拝恭敬すべし。」
by ishid K. (2005-11-12 17:19) 

ishid K.

  日本は、民謡など、戦前の日本の社会に受け継がれてきた大切な心を、もう一度、見直す時期に差し掛かっているのかもしれません。最近、巷で耳にします「スローライフ」とか、「LOHAS」(Lifestyles of Health and Sustainability)などという言葉には、もともと自然とともに暮らしていた日本人のアイデンティティを取り戻そうとしているようにも見えます。TBSでは、「まんが日本むかし話」(毎週水曜日)が再放送されはじめました。とんちの「一休さん」のアニメも、そのうち再放送されるかもしれません。自然を大切にすることは、他者を思いやる気持ちにもつながるように思います。日本は、よい行為を、笑いの種にするような社会ではなく、よい行為をよいと思える心の通じた社会になるといいと思います。
by ishid K. (2005-11-12 17:36) 

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