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経済行為とありがとう [仏教]

 大学で教師をしているということは、大学が学生(の親御さん)から授業料をいただき、僕が大学から給料をもらっている、ということになります。それで生活をし、僕の場合は新幹線代なども出し、また本を買ったりもしています。まあ、給料としてもらえば使い道は特に限定されているわけではありません。

 学生の方からすれば、かなり高額な授業料を払い、その対価として授業なり指導なりを受けているわけです。ですから、教えてもらえるのは当然のことのはずです。

 しかし、たとえば、授業のあとや個人指導のあとに、学生は「ありがとうございました」と言ってくれます。これはどういうことなのでしょうか。
 
 同じようなことは、お店で食事をしたときにも見られます。食事を終えて出て行くときに、僕たちは「ごちそうさまでした」と言うでしょう。お店の人は「ありがとうございました」と言いますよね。お店の人の言葉は、お金を払ってもらったことに対してのお礼かもしれませんが、「ごちそうさま」という僕たちの言葉は、お金を払って受け取ったものに対して言っているので、学生が言う「ありがとうございました」と同じ趣旨です。

 お店の人だって、そのお金を恵んでもらったわけではなく、食事を作ったことに対する代金なのですから、もらって当然で、お礼を言う必要はないかもしれません。

 何が言いたいのかと言うと、お金の流れのような経済行為と、人に何かをしてあげ、またそれに感謝をする、というのは、切り離された別次元の問題だということです。何かに感謝したとき、自然に「ありがとうございました」や「ごちそうさまでした」という気持ちが生まれ、そしてそういう言葉が出てくるのです。そういう気持ちや言葉は、自分の心にも、そして相手の心にもいい影響を残していくでしょう。教えたり、教えられたり、食べ物を作ったり、それを食べたりすること、これらも人と人の間の行為ですが、それがいい関係を築けたとき、感謝やお礼の言葉になり、それがまた人と人の間の一つの行為になって、後々に影響を残していくわけです。

 こういう気持ちや言葉を仏教では意業・語業といいます。この業とは、その行為が何かの影響を後に残していくことを指しています。その影響はどこに残されるのでしょうか。これまで僕が書いてきたことからお分かりのように、それは自分や相手の心に残されるのです。いや、少し言い方が正しくないかもしれません。その行為の影響で心が少しずつ変わっていく、いい方向に変わっていく、と考えた方がいいでしょう。何か「物」が心に残されていくわけではないのですから。

 経済行為は、こういう人と人とが関わり合う可能性を開いているだけで、そこでどのように関わり合い、どのような関係を築いていくかは、その時々のそれらの人同士の心の持ち方によって決まっていくのだと思います。だとすれば、やはり、何をするにせよ、心を込めて行い、そういう心に触れることで、また誠意を返していくことで、自分の心も相手の心も少しずついい方向に変えていきたいものです。実際には、なかなか思い通りにいかないことが多いとは思いますが・・・。


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コメント 7

ishid K.

 善意によって熏習された心の相続により、ひとはよりよい人生を重ねることができます。書物であれ、恩師であれ、よい出会いに、いつも「ありがとうございました」という感謝の気持ちをもって日々を送りますと、心口意の三業も自ずから正されることでしょう。自らが感謝の気持ちで満たされたとき、他者に対する慈愛の心も自ずから生じましょう。社会は人と人との間に誠意がなくては成り立ちませんので、心の交わりを大切にしていきたいです。
by ishid K. (2005-11-18 22:44) 

ishid K.

 上述のコメントに訂正箇所が見つかりました。お詫びして、訂正いたします。

   (正)身口意の三業 (誤)心口意の三業
by ishid K. (2005-11-18 22:55) 

オカメインコの母

うーむ、わたしはあなたが何をきっかけに
この文章を書いたのかイタイほどわかります。
周囲に無力感を与えるあのお方を念頭においてますね。
それは・・・・(以下自粛)
by オカメインコの母 (2005-11-20 15:05) 

ishid K,

 先生コメントありがとうございます。上の文章に関しましては、私のブログに詳しく説明してあります。「周囲に無力感を与えるあのお方」というのは、私には思い浮かびませんが、ただただ感謝の気持ちをもって日々を送りたいと思っています。
by ishid K, (2005-11-20 17:56) 

<う>

 個人的には,「ありがとう」という気持ちで授業を受けた方が身に付くと思います。その知識は,その「ありがとう」と言いたくなるような人がいうから納得できるからかもしれません。また,多くの人にとってもムスッとして出されたご飯を食べるよりも,ご飯も美味しいのではないのでしょうか。
 そう考えると,「ありがとう」というのは,自分のために言っているのというのが実感ですが,普段はそんな大それたことを意識しているのではなく,もっとテキトウに,言いたいからいっているだけなのだと思います。

 もっといえば,自分が良くなるために「ありがとう」と意識して言ってしまうと,ぎこちなくなってしまいそうです。私の場合。
by <う> (2005-11-21 10:52) 

yfukuda

>><う>さん
意識的に「ありがとう」と言うと、ぎこちなくなる、というのはそうかもしれません。僕の上の文章は、自然にそういう気持ちが生まれてくるはず、という、いわば性善説に立っています。でも、そうならない場面やシチュエーションもありますよね。前にプラスの感情とマイナスの感情について書いたように、マイナスの感情はプラスの感情を思い起こすことで、少しずつ弱めていくことができるのです。マイナスの感情がむくむくと出てきたときには、ぎこちなくても、意識的に「ありがとうございます」と言ってみると、それが単純に言葉だけだったとしても、その言葉につられて自然にそういう気持ちが生まれてくるのではないかと思います。
by yfukuda (2005-11-21 19:23) 

<う>

>その言葉につられて自然にそういう気持ちが生まれてくるのではないかと思います。
 たしかに,そのとおりですね。
 形から入って繰り返しているうちに,そのうち中身も少しずつ充実するのは実感です。これから意識して「ありがとう」といおうと思います。

 どうもありがとうございました。
by <う> (2005-11-23 14:24) 

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