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御嶽山の猫 [雑感]

 以前、御嶽神社に毎晩お参りに行くときに見かける「タケちゃん」という猫について書いたことがある。その後、他にもう一匹、「一号」と僕たちが名付けた猫が来るようになった。最初はタケちゃんのおこぼれをもらうために寄ってきたのだが、そのうちに僕の根気強い説得に少しずつ心を開き、直接お参りしている僕の足下で脛こすりをするようになった。僕はこうして警戒心の強い動物と仲が良くなるのが上手いのである。

 一号はタケちゃんのような美猫ではなく、いじけた感じの小柄で尻尾もまん丸い猫である。警戒心が強いので人の近くには行かない。タケちゃんの兄弟のようでもあるが、ときどきはタケちゃんが威嚇して追い払おうとすることもある。

 しばらくすると飽食し、みんなに可愛がられていたタケちゃんは(人なつっこいせいもある。)僕が行ってもそれほど喜ぶ風ではなく、また見かけないことも多くなった。それに対して一号は鳥居を入ったらすぐに境内の中から走り寄ってきてくれる。そして、境内を、時々こちらを振り向きながら僕と一緒に走っていく。

 段々と栄養もよくなり小柄なのに丸々と太ったちび猫になった一号は、後から見るところころっとしたぬいぐるみが走っていくように見えた。脛擦りする力も強く、僕に会える歓びを体中で表現していた。

 それが、あるとき、妻がタケちゃんを撫でているときに、神主の一人が出てきて、猫に餌をやらないでくれ、と行っていったそうである。そして、神社の外の近くの美容院の前の電信柱に「とても迷惑しています。のら猫に餌をやらないで下さい」と書いた張り紙が張り出された。

 結局は、それぞれの都合がぶつかっているということなのだろう。そして人間の都合で動物の命は簡単に否定される。要するに「のら猫は迷惑なので、飢え死にさせることに手を貸してくれ」とその張り紙は言っているようだった。確かにその張り紙を書いた人はそこまで意識はしていないだろう。だが、結局は人間の都合で動物を排除せよ、それに協力せよ、なぜならば、自分が困っているのだから、ということになるだろう。

 迷惑と思うか思わないかは、その人の気持ち次第なのである。だから、迷惑と思っている人がいるならば、それは迷惑なのだ、という意味ではない。ものすごく身勝手な人間がいたら、他の人が迷惑と思わないことも迷惑になってしまうだろう。全部を本人の気持ちに還元してしまうのが共同社会の倫理ではない。人間としての成熟した良識を備えていることが、まずは必要な条件なのである。

 迷惑をかけられたくないから、人にも迷惑をかけない、人からあれこれ言われたくないから、慎む、というのは、本当の倫理ではない。人間は人の立場を尊重し、人のことを思い遣り、人に害を与えない、というのは、人間の「あるべき姿」であり、それは利害損得とは関係のない「定言命法」なのである。

 一体、猫のかける迷惑とはどんなものか。人間は生きているだけで自然に対して迷惑をかけているではないか。そういう迷惑を多少ともかけつつ、他者を尊重しながら生きていくのが人間のあるべき姿ではないか。

 タケちゃんも一号も去勢されていた。つまり誰かが手をかけていた猫だった。のら猫というカテゴリーには入らないと僕たちは考え、それ以後もご飯を上げ続けた。そして、ある日から、僕たちはタケちゃんも一号も、そしてときどき、盛りの季節に出没していた全ての猫の姿が御嶽神社から消えたてしまった。そして僕たちは別の神社にお参りするようになった。
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