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森有正 [雑感]

 今、森有正の本といっても、新刊ではなかなか手に入らなくなっている。1年前には全巻買えたちくま文庫版の『森有正エッセー集成』全5巻も、今や第1巻以外は品切れで手に入らない。昨年これを手に入れた人は幸運だった。本がなくなれば、それを知っている人も少なくなっていく。新たに森有正の本を手に取る人はいなくなるだろう。

 もちろん、古本屋には、時々代表作『遙かなノートル・ダム』が出ていることはある。貴重な本のはずなのに、数百円の値付けだったりする。かく言うぼくも、単行本はほとんど持っているが、ないものもあるということで古本屋で森有正全集を購入した。

 確かに、時代の雰囲気にマッチしていないと言えるかも知れない。森有正を哲学者と言うべきか、思想家と言うべきか、はたまたエッセイストと言うべきか、それは難しい。しかし、現在、彼のようにオリジナルな思想を持っていて、書店の本棚を占拠している人に誰がいるだろうか。現代は、静かに語る思想家よりも、ベストセラーになる軽い読み物で名を上げる人の方が圧倒的に多い。あるいは、思想家ではなく、社会学者や政治学者が、気の利いた言葉を並べた思想書まがいを出していることが多い。それが思想の進歩を意味しているのであればいいのだが、単に世の中の移り気な性格のせいかもしれない。

 それには出版社の姿勢というのも、関わっている。出版社は内容よりも売れる本を企画し、出版する。内容が問題になるときにも、売れる内容かどうかが問題とされる。売れない本は作られない。森有正の本が消えていくのは、売れないからだろう。そして何故売れないかと言えば、その文章のテンポが現代にマッチしないからかもしれない。こんな悠長な本を読んでいる時間はない、もっと手っ取り早く、目立つ内容の本を読みたい、そういう読者層の要求が、売れる本を作りたい出版社に訴えることになる。

 森有正の本に書かれている具体的な内容は、もう過ぎ去った時代、終戦後から高度成長期の時代のことである。エッセーである以上、時事的な話題に言及するのは仕方がないが、彼の思想自体は必ずしも時事的なものに依存しているわけではない。ただ、その古びた話題の中から普遍的な思想を読み取ってくるのは、結構骨が折れるのである。今では意味の無くなった、あるいはよく分からなくなった話題を延々と読まされるのは、僕でさえ退屈になる。

 では、その思想は時代遅れだろうか。彼の思想は、極めて独自な形であるが、実存主義、あるいは実存の哲学と言ってもいいような趣を呈している。実存主義と言えば、サルトルもまた少し前まで忘れられた思想家だった。最近、新訳や新装本、文庫本などが相次いで出版されて、再評価されつつあるが、彼の場合は、もっと致命的な問題を抱えている。彼の「哲学」の評価が低いと言うことだ。哲学的には彼の主張は破綻を来たし、現代の哲学の水準に達しているとは言えない。その中に何か見るべきものはあるかもしれないが、その主張そのものと全面的に対決する価値はもはやなさそうである。

 森有正も「哲学者」としてパスカルやデカルトの研究をしている。果たしてこれらが、それ自体として今でも意味があるかどうかは、疑問である。僕は専門を異にするので、現在の研究水準からこれらを評価することはできないが、少なくとも、これらが後代に影響を与えうるとはとても言えないように思われる。

 むしろ、森有正の真骨頂は、『バビロンのほとりにて』などの手紙形式のエッセー、そしてとりわけ、筑摩書房から出ていた三冊のエッセー集『遙かなノートル・ダム』『旅の空の下で』『木々は光を浴びて』に収録されいる文章で伺うことができる。特にこの三冊のエッセー集は、「経験」「定義」「感覚」「内面の促し」「変貌」など、普通の言葉に独自の意味を担わせる森有正の思想が、系統だって展開されている。

 森有正と共に、これらの言葉が彼の中でどのように生まれ、どのように成長していったかを一緒に辿っていくとき、僕たちの日常の見方もまた知らぬうちに、彼の定義した言葉によって彩られていくようになる。しかもそれは僕たち自身の経験の深まりをもって。

 今後、機会があれば、少しずつ彼の思想について書いていきたいと思う。最近の僕は若い頃読んだ本を、もう一度年を隔てて読み直したいという衝動を感じているのである。
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