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新アジア仏教史でカットした部分を復活します [チベット]

 『新アジア仏教史』はAmazonではすぐに売り切れて、入荷待ちになってしまいます。申し訳ありません。出版社にお願いしてこまめに補充するようにしていますので、表示にかかわらずそんなに待たなくて済むと思います。諦めずに注文してください。

 さて、僕の書いた「ニンマ派、カギュ派、ゲルク派」の部分は、予定の枚数を大幅に超過してしまいました。何とか削ろうとしたのですが、大して縮まりませんでした。その中で、ニンマ派の短いテキストの原文と訳を載せたところ、専門的すぎるということでカットになりました。折角ですので、ここで復活したいと思います。

 ニンマ派は僕の専門ではないので、間違えもあるかもしれません。教えて頂けたら嬉しいです。

●ガラプ・ドルジェの遺言「要点を突く三つの言葉」

 ニンマ派の伝承の中で最初にニンマの教えを説いたのは、ガラプ・ドルジェだと言われるが、この人物の実在性は疑わしい。年代も書物によって釈尊が涅槃した後の数十年から数百年の間の紀元前に置かており、まちまちである。歴史的なことはさておき、ニンマ派の伝承によれば、ガラプ・ドルジェが虹の身体となって虚空の光明の中に溶け込んでいったとき、長年彼の元で学んできたマンジュシュリーミトラは嘆き悲しみ「師の光明が消えてしまったら、一体誰が世の闇を取り除くことができよう」と叫んだ。そのとき、ガラプ・ドルジェは虚空の光のマンダラの中から右手を伸ばした。その手の中に親指の先くらいの大きさの金色の小箱を持っていた。その金の小箱はマンジュシュリーミトラの周りを三度回って右手の上に落ちた。それを開いて中を見てみると、そこに「要点を突く三つの言葉」のテキストが入っていた。それは五つの宝石からなる板の上にラピスラズリを溶かしたインクで書かれていた。それを見ただけでマンジュシュリーミトラは師と同じ覚りを瞬時に得たのである。こうして、ゾクチェンの教えの伝承が始まったのである。

 その三つの言葉は極めて短く暗号のようなものである。ここでそれを詳しく注釈することはできないが、その雰囲気を伝えるべく、チベット語と、その直訳を載せ、簡潔な説明をつけることにしよう。

1.ngo rang thog tu sprad //
自分自身の(rang)本質(ngo)へと直接(thog tu)導かれる(ngo sprad)。

2.thag gcig thog tu bcad //
ただこれ一つ(gcig)であると決定的に(thog tu)確定する(thag bcad)。

3.gdeng grol thog tu bca' //
自己解脱(grol)への信頼(gdeng)を決定的に(thog tu)確立し留まり続ける(bca')。

【1.自分自身の本質とは、自己の中にある明知、原初の智慧である。まず最初に概念的な思考を排して直接にその本質へと師匠によって導かれよ。】

【2.さまざまな対立概念や多様性が現れても、本質はいつも一つである。その唯一の本質を決定的に確信せよ。】

【3.その本質から現れる一切の現象はそれ自身で解脱している。そのことに対する信頼を獲得して、そこに留まり続けよ。】

●「明知のカッコー」

 ヴァイローチャナは、シャーンタラクシタの元でチベットで最初に出家した七人のうちの一人であった。その後、インドでゾクチェンの成就者シュリーシンパに昼は顕教と密教、夜はゾクチェンの教えを学んだ。彼がチベットに持ち帰った最初のゾクチェンのテキストがこの「明知のカッコー」である。この話自体は伝説であるかもしれないが、このテキストは敦煌から発見されたために、確かに前伝期にゾクチェンの思想が存在していたことが分かる。カッコーは、明知の覚りを目覚めさせる鳴き声の比喩として用いられている。この詩は、六行からなるので、「六行の金剛詩」とも言われている。

1.sna tshogs rang bzhin mi gnyis kyang /
多様に現れたもの(sna tshogs)の本質(rang bzhin)は不二(mi gnyis)である。しかし(kyang)、

2.cha shas nyid du spros dang bral /
個々のもの(cha shas)はそれ自身において(nyid du)概念的虚構(spros)を離れている(dang bral)。

3.ji bzhin ba zhes mi rtog kyang /
あるがままのものであると(ji bzhin ba zhes)概念的思考で捉えることはできない(mi rtog)。そうであっても(kyang)、

4.rnam par snang mdzad kun tu bzang /
〔全てのものは〕形として(rnam par)現れる(snang mdzad)。全て(kun tu)良し(bzang)。

5.zin pas rtsol ba'i nad spangs te /
全てが完成しているので(zin pas)、努力の病(rtsol ba'i nad)を放棄して(spangs te)、

6.lhun gyis gnas pa bzhag pa yin /
自然な状態に(lhun gyis)留まること(gnas pa)が三昧状態(bzhag pa)である。

【1.現象的な世界は多様なものとして現れるが、その本質は不二のものである。いかなる差別も区別もない。多様性は相対的なもので、不二なる本質は全ての相対性を超えた絶対的なものである。】

【2.しかし、多様に現れている個々の存在も、根源的な唯一不二の基体が現れたものであるので、それ自体概念的虚構を離れて、ありのままに完全なものとして成立している。】

【3.あるがままのもの、すなわち存在の真相、あるいは真如は、概念的言語的に捉えることはできないが、】

【4.そうであっても、あらゆるものはあるがままで完全なものとして姿を現し続ける。それはそのままで全て完成されており、何も変える必要はない。rnam par snang mdzadは毘盧遮那仏、kun tu bzang poは普賢のチベット語名である。それをここでは、ゾクチェンの存在論として解釈している。】

【5.全ては最後まで完成されているので、それを変えようとしたり、何かを作り出そうとしたりする努力は止めなければならない。】

【6.全てが何の努力も作意も作り事もなく自然に現れてくる、そのような完成された状態にい続け、そのままで行動することが、三昧の状態にあることなのである。】

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