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23回目の記念日 [雑感]

 僕の誕生日は三月、妻の誕生日は六月、そして結婚記念日は五月にある。イベント、というほど盛り上がるわけではなく、ただ毎年の節目を数えているだけである。それでも僕たちは、毎年、その日か、都合によってはその前後に、一緒に記念の食事に出かけたりする。

 こうして、僕たちは、誕生日と結婚記念日を毎年迎えてもう23年になる。あした妻の誕生日が来る。そして僕たちはまたいつもと同じように食事に出かける。この記念日が毎年変わることなく続いてきたように、振り返ってみれば、僕たちの生活もこの23年間ほとんど変わることなく続けられてきた。

 僕たちには子どもがいない。だから子どもの成長と共に成長することもなかった。ごろうちゃんとるりを迎えはしたが、それも成長からはほど遠い。僕たちは大人になることもなく、子どもでもないままに、何も変わることもなく暮らしてきた。この家の中では、誰も成長することなく、ただ時間が過ぎていくだけである。いや、そもそも時間が過ぎているという実感さえもない。

 まるで天界にいるかのようだ。天界の時間は人間界の時間よりもずっとゆっくり流れる。ただ安楽に暮らしているうちに知らぬ間に時が流れていく。

 僕たちの生活は外の世界の変化からも、それほど影響されることなく、波風も立つことなく、天界の安楽を享受しているようである。確かに時は過ぎては行く。天界においても。僕たちも「天人五衰」ではないが体の衰えは感じている。教えている学生は毎年変わり、その都度対応も変えなければならないし、悩ましい問題も出てきたりはする。本を出したり論文を書いたり職場を変えたこともある。

 ただこの家の中での生活は、それらの外の変化とは壁を隔てて、何もかもが永劫回帰のように平穏に繰り返されてきた。これが僕たちのこの世での運命であるかのように。他の選択肢などなかったし、考えられもしなかった。この生活がこれから変わるとすれば、僕たちのどちらかの、この世での寿命が尽きるときである。それは確かに少しずつ近づいてはいる。しかし、その時が来ても、何も思い残すことはないにちがいない。ずっと充足した日々が続いてきたから。後悔をしたり、何かが足りなかったりすることはなかったから。

 その最後のときを迎えても、そのときの悲しみさえも、もっと長い人生の、かすかな変化に過ぎない。僕たちはまた別の世界で再び何かの形で出逢うにちがいない。僕たちは以前にもどこかで出逢っていたような気がする。そうでなければ、どうして二人(と一羽と一匹)の生活がこれほどまでに安定して続くであろうか。

 すでにその兆しはある。るりは、そうやって一度、この世を去ってからしばらくして同じ姿で僕たちの家に戻ってきた。もう一度若返り新しい肉体をもって。一年も経ってみれば、もう昔と変わらぬ大人の猫である。これからまた寿命が尽きるまで僕たちとともに生きていくだろう。同じように心通わせる毎日を送りながら。

 僕たちが亡くなったら、いつかはまたどこかで若返って出逢うにちがいない。そしてまたチベットのために力を尽くそうと誓うだろう。チベット仏教の教えが永遠の真理であるように、それを支えようとする僕たちもまた永遠に回帰していくにちがいない。この23年間の変わらぬ生活を振り返って、この地球を訪れた束の間の時間をこの四人が出逢い共に過ごしてきたこと、その運命と奇跡に人生の深い意味を思わずにはいられない。
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