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ダライラマ法王の横浜講演「縁起讃」(修正) [チベット]

 ダライ・ラマ法王講演の深夜に書いた文章が分かりづらかったので、少し書き直した(2010/6/29)。もし、なお分からないことがあれば、コメントでお聞き下さい。

 今日、ダライ・ラマ法王の横浜での法話と講演を聞いてきた。午前に仏教についてのお話、午後に一般的な講演と質疑応答があった。パシフィコ横浜の展示ホールという大きな会場が一杯になる盛況で、きっとぎりぎりならば並ばずに入れるだろうと高をくくった僕たちは、会場に入るまでに30分もかかってしまい、結局、法話の最初の方は聞き逃してしまった。

 今日のテキストは、聖ツォンカパの『縁起讃rten 'brel bstod pa』であるということで、かなり本格的な中観のお話になると期待していった。というのも、この『縁起讃』という短い著作は、短いにもかかわらず、ツォンカパの歴史的転機となるときに書かれたものだからである。

 ツォンカパはそれ以前から、文殊菩薩と直接対話をして、仏教、特に中観思想の難解な点についていろいろと質問していた。しかし、文殊菩薩のお答を十分に理解することができず、挙げ句の果てに「お前に話すべきことはみんな話した。すぐに分からないかも知れないが、私の言ったことを書き留めておいて、あとでよくよく考察せよ」と突き放されてしまう。ツォンカパは文殊の言葉とインドの聖典を繰り返し繰り返し勉強し考えに考えを重ねた。

 あるとき、夢の中でインドの中観の論師5人が議論をしているのを見た。その中の一人がつかつかとツォンカパの元に近づき、「私はブッダパーリタである。」と言って、彼が書いた中論の注釈書のあるページをツォンカパの頭の上に載せた。そこで目が覚めたツォンカパは、その示されたページを読むとたちどころに中観思想の奥義をはっきりと理解することができた。そのときに、そのことを喜んで「縁起を説いた点から釈尊を賛嘆する偈」を書いた。それが『縁起讃』である。そして、程なくツォンカパは最初の主著『ラムリム・覚りへの道の階梯』を書き、その最後の章で、その同じ理解を詳しく論理的に論証した。

 こんな経緯があるので、この『縁起讃』はツォンカパが自らの中観思想の理解を確立したときの熱気を伝える重要なテキストだと言える。

 その基本的な内容は「中観派の独自の特長dbu ma pa'i mthun mong ma yin pa'i khyad chos」と呼ばれるものである。これについては、別にかつて(一般向けの雑誌に)書いた論文(「ツォンカパにおける縁起と空の存在論──中観派の不共の勝法について──」PDFがある。ひと言で言えば、「縁起しているものが同時に無自性である」という思想である。この「同時に」というのが大事な点なのだが、そのことを論理的に突き詰めていったのが、『縁起讃』であり、また『ラムリム』の最終章なのである。

 ただ、この偈は結構難しく、注釈がないと読めないものである。そこでダライ・ラマ法王が解説してくださるのを楽しみにしていたわけである。が、さすがに内容が内容だけに、実際にはテキストの解説は最初の5偈くらいで終わってしまった。その分、元のテキストにはないことをいろいろとお話しされた。

 おそらくその内容は突然聞いたのでは、十分に理解できないことだろうと思う。実際に多くの人からダライ・ラマ法王のお話の中でも中観や空のお話は難しくてよく分からないという感想を聞く。しかるに『縁起讃』の内容は、そのなかでも核心中の核心なので、すぐに理解することは難しい。

 法王の解説の流れは妻のブログでもレポートされているので、ここでは、それを補足するために、一番大事だと思うことを少し解説しておきたい。なぜ、この賛嘆偈が「釈尊を讃えるために、釈尊が縁起を説いたことを讃えるのが一番本質的である」と言っているのか、ということを理解するのが、一番大事なポイントである。

 まずは、僕の5偈までの訳を挙げておこう。会場で配られた訳に比べて原文のチベット語に近い訳である。

(1) その〔縁起〕をご覧になったが故に無上の智者であり、それをお説きになったが故に無上の教師である、
縁起をご覧になり教えられた勝者〔たる釈尊=あなた〕に敬礼します。

(2) 世俗的な世界における、あらゆる衰退の根本〔原因〕は無明であり、その無明を退けることができるのは、他ならぬ縁起を見ることによってであると〔あなたは〕お説きになった。

(3) その〔教えを聞いた〕とき、知恵あるものは、縁起の道があなた(=釈尊)の教えの核心であると、どうして理解しないであろうか。

(4) そうであるならば、依怙尊であるあなたを賞讃する観点として、〔縁に〕依って生起すること(=縁起)をお説きになったこと以上に素晴らしい点を誰が見出すことができようか。

(5) 何であれ縁に依って〔存在して〕いるものは、それぞれ自性に関して空であるとお説きになったこのことよりも希有なる正しい教え方は〔他に〕何があるであろうか。

 「世俗的な世界における衰退」とあるが、要するにそれは、この世での苦しみのことである。その苦しみの根本原因は無明、あるいは無知に他ならない。

 無知とは、「智慧がないこと」であるから、無知と智慧は相反する性質のもの、つまり、両立しない。両立しないから、智慧を身に付ければ、無知は自然に存在できずに消滅してしまう。これはとても論理的な話である。情緒的なところは全くない。ツォンカパの思想も、そしてそれを解説するダライ・ラマ法王のお話も極めて論理的に展開される。

 ところで、その智慧とは何か。それが第2偈で説かれる「縁起を見ること」である。したがって逆に言えば、無知とは「縁起を知らないこと」である。縁起を知るという智慧を身に付けることによって、それとは逆の縁起を知らないという無知は自然と消滅し、そして苦しみもまた消滅する。

 だからこそ、その縁起を自ら覚り、それを人に教えた釈尊は素晴らしいとツォンカパは賞讃する。それゆえ、そのように教えてくれた釈尊に敬礼するのである。そのことはまた、縁起こそが釈尊の教えの心髄であることをも教えてくれる。

 それではなぜ智慧とは「縁起を知ること」だと言えるのであろうか。それが第5偈に説かれている。すなわち「縁起しているものが同時に無自性であり空である」というのが「縁起を知ること」の内容である。「無自性」とは「自性がないこと」あるいは「自性に関して空である」という意味であるが、これがものごとの真実のあり方であり、それは縁起しているもののあり方の本質に他ならない。

 それはどういうことであろうか。その点についてダライ・ラマ法王は『縁起讃』の説明を離れて、詳しく解説をされた。法王は縁起に二つの種類があると説き始められた。

 一つは「物事は全て因と縁に依って生じた」という意味での縁起、もう一つは「物事は全て他のものに相対的に名付けられたものにすぎない」という意味での縁起である。ここでは前者を「因果関係の縁起」、後者を「名付けられただけのものとしての縁起」と訳しておこう。

 一切法、すなわち全ての存在は原因によって生じたものだけではない。原因のない、したがって永続的な存在も一切法に含まれる。だとすると、因果関係の縁起では、一切法は空であると言うことはできない。法王によれば、因果関係にあることから導き出される結論は、「無自性・空」ではなく「無常」である。無常とは、物事が一瞬たりとも止まることなく、一瞬一瞬生じては滅していることである。原因によって生じたものは、一瞬後に消滅している。したがって、無常なのである。

 また因果関係を知ることによって、われわれは、善を行えば楽を得ることができ、悪を行えば苦を得ることになるという道理を知ることになる。善と楽、悪と苦の間に因果関係があるからである。これもまた仏教の根本的な教えの一つである。法王は特に言及はしなかったが、修行をすることによって仏果を得る、という主張も、因果関係を前提として始めて成り立つことである。

 しかし、それはまだ縁起のラフな理解にすぎない。より微細な縁起、すなわち理解が難しく、しかし本質的な縁起とは、「名付けられただけのものとしての縁起」である。全てのものは、名前を付けられて始めて存在し始めるのであって、それ自体で「これが〜である」と言えるようなものは、どこを探しても存在しない。そのような名前は、突然それ自体で付けられるものではなく、あくまで他のものとの相対的な関係において名付けられるのである。すなわち、全てのものは他のものとの相対的な関係において、仮に名付けられただけの存在に過ぎない。

 たとえば、因果関係の縁起では、原因によって結果が生じると考えられる。しかし、原因は結果があって始めて名付けられ、考えられるものである。原因は最初から原因なわけではなく、結果が生じたときに原因もまた原因として認識されるようになったのである。したがって、原因とは結果に相対的に名付けられただけの存在にすぎない。もちろん、結果も原因に相対的に名付けられたものにすぎない。このような相対的な名付けの連鎖は、全てのものに及んで、あらゆるものが、何もそれ自体での本質を持たずに相対的に考えられただけのものにすぎないことになる。

 それ自体で成立している本質のことを「自性」と呼び、いかなるものにも、そのような自性が存在しないことが、無自性、すなわち空と言われるのである。これこそが物事の真の存在の仕方、物事の真相である。

 すべてのものは相対的に名付けられただけの存在であるが故に無自性であるということが、第二の縁起の内容に他ならない。これを理解したとき、ものごとを固定的に、それ自体でそういう性質のものであると捉える無明は消滅し、そうすることによって、誤って捉えることに起因する輪廻の苦しみもまた消える。これが智慧の内実に他ならない。

 この第二の縁起と空とは表裏の関係にあり、あるいは全く切り離せない一つの構造をなしている。このことを正しく理解したのが中観派の論師たちである。しかし、そのことを最初に悟り、弟子たちにそれを説いたものが釈尊であり、それが釈尊の教えの核心であり、だからこそ、釈尊がそのような縁起=空を説いたことを賛嘆するのである。

 以上が、今日のダライ・ラマ法王の法話の核心であり、同時に難しい点でもある。もちろん、僕の説明は法王よりも遙かに下手で、輪をかけて難しくしてしまったかもしれない。また、もう少し詳しく丁寧に語った方がいいこともたくさんある。ただそれはもう少し別の機会にゆっくりと解説をしたいと思う。
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