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ダライラマ法王に説法? [チベット]

 もう一週間前になるが(時間の過ぎるのが早い。その間に自分のしたことと言ったら、slight developmentでさえない。全てに遅れていく。)、横浜でのダライ・ラマ法王の講演会の質疑応答で、法の華の信者の女性が、法王に向かって、開口一番「サイコーですかー?」と大声で問いかけた。声だけを聞くと、実に明るい大きな声で、元気一杯。元気がいいことだけが取り柄です、という感じだった。

 それに対してダライ・ラマ法王は照明除けのサンバイザーを取って背筋を伸ばし、英語で(英語自体は覚えていないが)「あなたが見て判断して」と答えた。まあ、「サイコーですかー_」という質問だけなら、それでいいだろう。

 だがそれに対して、その女性は「心の底から大声で笑うことが釈迦の教えの本質です。サイコーですかー_」と続けた。なんと、チベット仏教の(ということは仏教の)最高指導者にして、観音菩薩の化身であり衆生済度のためにこの世に生まれてこられた方に向かって、釈尊の教えの本質を「説教」したのである。あり得ないことである。

 もちろん、その女性はそういうダライラマ法王の生まれも生い立ちも教えも何も知らないに違いないし、知る気もなかったのだろう。それはそうなのだが、ただ、それをして、何と無知な人か。あるいは何と滑稽な行動をしていることか、と考えるのは易しい。しかし、ここで僕が強調したいのは、そのことではない。

 これはその日の法話と講演の最後に行われた質疑応答であるから、法王は諄々と一日かけて仏教の本質について明解で揺るぎない話をされてきた。ゆっくりと繰り返し大事なことを話してきたのである。もちろん、それは今日に限ったことではなく、日本でもたくさんのダライラマ本が出版されている。だから、日本語でも十分に法王のお考え、あるいはチベット仏教の基本精神について知ることができる状況にある。

 そうやって一日、一人で午前、午後と講演をした挙げ句に出たのが、そのダライラマに対して釈尊の教えの本質を教えるという女性の言葉である。普通であれば、それまでの努力が全く何も実を結んでいなかったことに対して腹を立てるか、あるいはもちろん怒りはもっともよくない煩悩であるから、怒らないとして、呆れ、一気に疲れを感じて、もうこの人たちに法を説くのは止めようと思うか、少なくとももうこれ以上質疑応答をする気になれ無くなるであろう。

 凡人だったら、そうするに決まっている。しかし、法王はまったく意気消沈する様子もなく、真面目に(ユーモアもなく、検査をしなければ最高のコンディションかどうかは分かりません、というように)答えた。そしてその後も何人もの質問を受け付けて答えていった。どのようなしょーもない質問にもくじけずに答えていったのである。

 その姿を見たとき、梵天勧請のことを思い出した。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いたとき、それを理解できる人はいないだろうと思って、このまま法を説くことなく、自分一人でそれを享受していよう考えた。それを知って、インドの神様である梵天が、「全ての人が理解することはできないが、あなたの教えを聞くことで悟ることができる人もいるのだから、その人のために法を説いて欲しい」とお願いし、「わかった」ということで法を説くことにした、という釈尊伝の有名な伝説である。

 その数少ない人はほんとに少ないかもしれないが、今が駄目でもこれから何度でも諦めずに教え続け、いつかは誰かが仏教を理解してくれるに違いないと法王は確信しているが故に、こんな質問があってもひるむことなく教え続けているに違いない。釈尊は最初の説法のときに、すでに五人の比丘を得ている。では、この日本で何人の人がダライラマ法王の説く仏教を理解して自ら発心するであろうか。そんなことを考えずに、ただ仏教のためにできるだけのことをする、という姿勢だけが際立って印象に残ったのであった。

 これはダライラマ法王に限ったことではない。2月にインドの再建デプン寺ゴマン学堂に行ったとき、その学堂長が我々日本人の訪問団に対する挨拶で、「私は仏教のためにできることは何でもします。ですから、仏教のために必要なことは何でも言って下さい。」と何度も強調していた。それは単に社交辞令で言ったのではない。かれらはやはり仏教が広まるためにはどのような労苦も厭わないという気持ちを純粋に持っているのである。
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ありかたにつきまして

チベット仏教の考え方につきまして質問があります。
1.絶対真理と無我と無自性は等しいといえるでしょうか。
2.無我とは法無我と人無我の二種類のみでしょうか。
3.法無我にも人無我と同じように存在しないものと存在するものとがあるのでしょうか。
4.もしあるとすればそれはどのようなものと考えればよろしいでしょうか。
5.人無我であり、存在するものであり、常往なもので、正しい認識(量)の対象(所縁)となるものはありますでしょうか。
6.法無我であり、正しい認識(量)の対象(所縁)となるものはありますでしょうか。
7.’それ自身が因や縁となることにより、他の有為法へ何らかの効果的作用(功用)を及ぼし得る。このような存在を、「事物」というようですが、’この場合の’事物’はチベット仏教入門の中のあらゆる事物(諸法)のあり方を説明するときの’事物’は同じ意味(チベット語で同じ単語?)でしょうか?  
by ありかたにつきまして (2010-07-11 21:19) 

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