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仏教を信じることの意味 [仏教]

仏教は、たぶん大部分の日本人が考えるような「宗教」ではない。宗教をどのように定義するかという問題は宗教学の重要なテーマであると、むかし大学の授業で聞いたことがある。宗教学者の岸本英夫が何度も何度も自らの宗教の定義をやりなおしたということを紹介しながらの話だった。

現在の宗教学が「宗教」をどのように定義しているかは知らないが、多くの日本人は、宗教には信仰が前提となり、その信仰は、普通の人には受け入れられないようなことを「信じる」ことだと考えているのではないだろうか。信仰を持っている人は、神仏などの絶対的な力に対する無条件の信服を持っているはずであると、特に無宗教の人たちから見たら、宗教というのはそのようなものとして映っていることだろう。

だから、仏教でも「信仰」ないしは「信心」は大事だと思われている。特に親鸞が「教→行→証」という伝統的なプロセスの中に「信」を介在させ、「教行信証」とし、その「信」ないしは「信心」も、伝統的な「信解」ではなく、阿弥陀如来から頂いた信心であるとしたことで、さらに日本仏教では信仰が重要視されるようになった。

だが、もともとの仏教では、現代の日本人が理解するような、あるいはキリスト教やイスラム教などの一神教、多神教でもヒンドゥー経のような仏教の母体ともなったと考えられる宗教における「信仰」は存在しない。

そもそも絶対的な能力を持つ絶対者のようなものは、仏教の考え方の中にはない。おすがりするような絶対的な力を持った存在はいないのである。仏は、最終的に覚ったもの、すなわち理解すべき事柄を完全に理解したもの、そしてその理解したこと自らに実現したものに他ならない。他者を救うとすれば、その人を同じ理解へと導く教師としての役割以外にはないのである。

仏教では、まずなによりも真実のあり方を「理解すること」が求められる。お釈迦様の説いたことも、無条件で信じるべきものではない。

仏教における「信」とは、正しいことを納得して受け入れ、それに対して純粋に信頼する心のことであり、その納得した正しいことを実現しようというプラスの気持ちの土台になるもののことである。

ツォンカパの代表作の一つ『善説心髄』に引用されて有名になった経典の言葉に、

焼いて、切って、こすって、磨いて金〔の真贋を判断する〕のように、
比丘、あるいは智者たちは、
私(釈尊)の言葉を、十分に検討してから実践するべきであって、
〔単に私を〕尊敬するがゆえに〔実践するべき〕ではない。

とある。論理的に徹底的に吟味し、疑う余地のないことを確認した上で、それを自ら受け入れ、信頼し、それを実現すべく修行するというのが仏教で言う「信」である。

論理的に吟味するということは、そこに非論理的であっても信じる、などということが介在しないことを意味している。どのような点から検討しても、批判することのできないほど正しい真実であるが故に、それを実現することは必須のこととなる。

ただ、ゼロから考えると言っても、われわれが自分一人で考えて正しい教えに到達できる見込みはない。それができるためには、何劫もの間、体験を重ね、思索を続け、徳を積み、覚るための準備が必要となる。それをしてきたお釈迦様だからこそ、覚りを実現できたのである。

そして、その正しいことをわれわれに示してくれた言葉があるからこそ、われわれはそれが正しいかどうかを吟味することができるのである。そのような教えを伝えてくれ、あるいはより分かりやすく説明してくれた師匠たちがいるからこそ、われわれのような知力の劣ったものでも、正しいことに到達することができるのである。

お釈迦様の言葉を正しく理解するために、われわれが何に依拠したらいいのか、そのことについても、また極めて論理的な教えが説かれている。

人に依らず、法(教え)に依れ。
言葉に依らず、意味に依れ。
常識的な知識に依らず、智慧に依れ。
未了義(解釈の余地のある)の経に依らず、了義(意味の確定した)の経に依れ。
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