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チベット語の憂鬱 [チベット]

 単に僕の授業だけかもしれないが、チベット語の入門にしても講読にしても、参加者はとても少ない。少ない人数を前にして一生懸命説明をしていて、ふと我に帰ったとき、自分のしていることは間違っているのではないだろうかという疑問が頭を過る。

 今、授業としてやっているのは、大谷大学でチベット語の文語文法入門の授業を通年で一つ、その受講生は4名。東大でチベット語文献講読の授業を前期半年で、その受講生も4名。大谷大学で講読会として私的にずっと開いているものも4名。あとは東大で後期に文語文法入門を開講する。これは何人かはもちろん分からない。昨年度は最後まで出たのは2、3名だったような気がする。

 かれこれ、25年くらいは、講読会をずっと開いてきた。そのほとんどは授業ではなく、私的な講読会であった。そういう場合の常として、参加者の共同研究の場のようなものが多いのだが、僕の場合は、ほとんどが参加者にチベット語の読み方を教えるという教育的なものであった。輪読形式で読んでもらって、その問題点を材料にそのチベット語の読み方を、文法や文脈の説明を交えて解説する、という形式のものである。

 さすがに入門のための私的な授業はしたことはなく、大学でそのような機会を持つようになったのは、最近のことである。何度か試行錯誤して、今は、John Rockwell, Jr. という人の A Primer for Classical Literary Tibetan という、1991年の英語の文語入門書を、例文や問題文は大部分拝借しながら、説明はほとんど全部僕が書きなおしたテキストを使っている。例文を借用して、構成も似ているので、このままでは出版はできそうにないが。

 この本の特徴は、例文が完全に仏教的なものであることに尽きる。その意味では、例文や問題文を読んでいるだけでも楽しいし、仏教の基本的な術語が網羅されているので、仏教文献を読むことだけに特化した入門書としても、よく出来ていると思う。

 しかし、それを使って学生に説明していると、はたしてこれで出来るようになるだろうかと疑問に思ってしまう。出てくるのは、ほんとに基本的な用語を使った基本的な文だが、次から次へとそういう文が並んでいると、そもそもチベット語の入門の敷居の高さに加えて仏教に入門することの困難さも上乗せられて、はたしてこれを消化できるだろうかと、不安になってしまうのである。

 目指しているのは、自分でチベット語仏教文献が読めるようになる能力を育成することにある。だが、はたらしてその必要のある人がどれだけいるだろうか。チベット仏教の研究者自体が数が少ない。僕はその数を増やしたいと思ってはいるが、しかし、実際にほとんど増えてはいない。だから初歩を教え、中級、上級のテキストの読み方を教えている。もう何年も。でもやはり増えてはいない。

 講読の授業でも講読会でも、その文法入門の内容を前提に、その文法的な説明を加え、そして文法では解決できないことは、文脈を説明し、どうしてそう訳さなければならないか、どうしてそういう解釈になるかを分析してみせる。同じように読むことができるようになれば、少なくとも僕と同じくらいには読めるようになり、そしてそのために僕が使ってきた膨大な時間を使わないで、そうなれるはずである。その先に行く時間も生まれるであろうと期待する。

 しかし、ここでも僕の説明はどの程度、「読解力」として参加者に身についているか、分からない。説明を聞いても、それが、次に自分で読むための能力として定着していくかとなると、やはりそこには大きなギャップがある。

 チベット語を勉強したいという人はある程度いるかもしれない。しかし、その人は一体何を読もうとしているのだろうか。チベット語の文法と辞書の引き方を覚えただけではチベット人の書いたものを読むことはできないし、また大蔵経のような翻訳物も正確に読むことは難しい。そしてその難しさを乗り越える必要性が、一体どれだけの人にあるであろうか。

 とても否定的な気持ちになる。果たしてそれは僕が労力をかけているほどに効果のあるものなのだろうか。意味の有ることなのだろうか。その自問は、たぶんもう教えることは止めたという気持ちになるまで続くことであろう。
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