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討論 svabhāvapratibandha─ダルマキールティ論理学の根本問題 [仏教論理学]

 しばらくぶりの更新になってしまった。

 2012年6月30日、7月1日の土日に、鶴見大学で印度学仏教学会学術大会が開かれる(プログラムのPDF)。

 そこでの発表を予定しているので、それまでの経過報告などをつぶやきたいと思ったのだが、ツイッターでは短すぎるので、こちらのブログで、発表内容についての情報をアップしていきたいと思う。

 この学会では僕は二つの発表をすることになっている。一つはチベット仏教でもう一つはインドの仏教論理学者ダルマキールティについてである。チベット仏教の方は、毎年発表しているツォンカパの中観思想についての発表である。題して

kun rdzob bden pa'i ngo boとdon dam bdan pa'i ngo bo ──『入中論』第6章第23偈の解釈をめぐって──

である。要するに『入中論』で最初に二諦説が出てくる偈の解釈をめぐってである。もちろん、話の中心はツォンカパである。全ての事物は「世俗諦のngo bo」と『勝義諦のngo bo」という二つのngo boを持っているという『入中論』の偈の意味をツォンカパはどのように解釈しているのか、特にngo boをどのような意味のものと考えたらいいのか、それを考察する。これについては、また別の機会に書くとして、もう一つの発表は、

パネル「討論 svabhāvapratibandha─ダルマキールティ論理学の根本問題」

と題するパネルの発表である。これはインド論理学研究会という、このブログでも以前紹介した研究会が中心となって企画したものである。この研究会のそもそもの発端が、松本史朗さんの印仏研の論文「svabhāvapratibandha」(30-1, 1981)執筆のための読書会であったこと、そして松本さんが着目して以降、これがダルマキールティ論理学の根本思想の一つとして多くの研究が積み重ねられてきたこと、に由来したタイトルを冠したのである。

 このパネルの趣旨および発表者の顔ぶれ、さらに各発表者の発表要旨については、インド論理学研究会のブログで紹介されているので、そちらをご覧頂きたい。また、svabhāvapratibandhaという概念についての研究の流れについては、発表者の一人片岡啓さんのブログにも簡単な紹介がアップされている。

 ここでは、ある程度ダルマキールティの論理学についての知識を前提として、僕の考えていることを少しずつ説明していきたいと思う。当日の発表時間は限られ、また僕自身の理解が、他のダルマキールティ研究の本流の人たちと大きく違うため、ある程度の地ならしをしておきたいと考えてのことである。

 さて、僕自身は、松本さんの論文のあと、svabhāvapratibandhaについて印仏研に二つの論文を書いた。今はいい時代で、こういう過去の論文のPDFが公開され、誰でも即座に参照できるようになっている。一つは、1984年の「ダルマキールティにおける論理の構造への問い」(『印仏研』33-1)で、もう一つは1987年の「ダルマキールティの論理学におけるsvabhāvapratibandhaの意味について」(『印仏研』35-2)である。今読み直してみると、この3年の間に、論文の書き方は随分変貌している。1984年の論文は、自分でも何を書いているのか、にわかには理解しがたいような、抽象的、観念的、思弁的な内容の論文である。その中のいくつかの言葉を除いては、もはや論文自体は必要ないのではないかと思えるほどである。

 一方、1987年の論文は、これも挑戦的、挑発的で、丁寧な議論などすっ飛ばして、結論だけを書き連ね、その論拠になるテキストは、説明もなく訳もせずにずらっと列挙しただけの代物であった。それでも、前のものよりはずっと具体的で、いくつかの論理のほころびや、曖昧な点、言い過ぎている点などがあるにせよ、基本的な理解は今も変わっていない。僕は、このパネルでの発表の前提として、『インド論理学研究』にこの簡潔すぎる旧稿を、もう少し丁寧に説明するような論文を書こうと考えた。考えたのは今年の初めだったが、実際にやってみると、単純に「丁寧に説明する」だけでは済まなくなり、いろいろと書き足している内に収拾が付かなくなっていた。まだ学会までには何とか書きたいという希望を捨てたわけではないので、このようなブログなど書かずに論文に集中しろよ、ということではあるが、万が一、書けなかったときのために、非公式にでも僕の考えをざっくばらんに書いておくことにも意味があるだろうと思って、この記事を書いている。

 さて、僕のsvabhāvapratibandhaについての理解は、また次の記事に書くこととして、他に関連する論文についても簡単にコメントをしておきたい。ダルマキールティは、svabhāvapratibandhaには二つのタイプがあると主張した。一つは、「それから生じることtadutpatti」であり、それによって結果から原因を推知させることができる。もう一つは「それと同じ存在を持つことtādātmya」で、それによって同一のものについての、「Aであるものは全てBである」という形での推理させることができる。このtādātmyaは、別にtadātmatvaとか、tadsvabhāvatvaとかと言われるのだが、その複合語および意味の解釈については、諸説あって、議論になっている。ある人は、「それを本質としている」と解し、ある人は「それの本質である」と解する。いずれの場合も、主語は論証因で、「それ」という代名詞は所証(sādhya)を指している。

 さらに、そのような分解はあまり意味がないと考え、これは概念としての論証因と概念としての所証が「実在において同一であること real identity」の意味である、と主張する。

 この問題について、哲学的に考えてみたのが、1991年の「自己同一性について : ダルマキールティ論理学におけるtadātmatvaをめぐって」(『前田専学先生還暦記念:我の思想』春秋社. pp.655-666) という論文であった。このころ僕は、tadātmatvaを「それをātman、すなわち自己存在としていること」という複合語として考え、あるものがあるものを自己存在と言えるための条件は何か、という問いを立てた。ダルマキールティは、その条件としてbhāvamātrānurodhin「その存在全てに共通に随伴していること」を挙げているが、さらに周到に「他のものに依存していないことnānyāyatta」とも付け加えている。多くの人は、この上の条件のmātraを「のみ」という意味に解し、「そのもののみに随伴していること」と「他のものに依存していること」を逆の意味であると理解するようであった。つまり「そのもののみ」とは「他のもの」の否定であり、「随伴していること」と「依存していること」は同じような意味であると、何となく理解しているようである。

 それに対して、僕は「他のものに依存する」というのは、「そのものが生じる原因以外のものに依存する」ことであると考え、そのようにそのものが生じるための原因以外のものに依存すると、そのもの全体に普遍的に随伴することがなくなり、何らかの限定が生じることになる、したがって、mātraというのは、そのような限定がないことであり、それによって、そのものの全ての成員に等しく成り立つという条件が満たされると考えた。もちろん、勝手に考えたわけではなく、ダルマキールティが、存在するものの刹那滅性を論証する議論に使われる原理から抽象し、一般化したものに他ならない。
 そんなことを背景に考えながら、ただ、インド学仏教学の論文らしからぬ体裁で書いたのであった。さらには、そういうスタイルを貫徹するために、やや無理な誘導をしたりして、その部分については論理的な破綻もしているかもしれないのである。本当は、ダルマキールティの「刹那滅論証」について、きちんと原文に即した議論を書くべきであったのだし、今ならそうするであろう。それ以前もそれ以降も、この「刹那滅論証」については多くの論文が書かれている。それらに全部目を通すならば、あるいは僕が言おうとしていたことを誰かが既に言っているかも知れない。だが、もしそうならば、tatsvabhāvatvaの重要な条件であるmātrānurodhinとnānyāyattaについて、「そのものだけに随伴し、他のものには依存しない」などという訳をそのままにしておくはずはないと思う。つまり、正確に刹那滅論証の「意味」を理解するならば、そのような訳にはならないはずなのである。

 ということで、この論文も、今となっては反故にしたいのではあるが、原文に即した論文を書くまでは、そのまま、そっとしておく方がいいだろうと思っている。

 ちなみに、この論文を収録しているのは販売されている本であり、電子データが公開されているわけではない。著作権は僕にあるとしても、印刷された版面には出版社の権利も含まれる。それを一般に公開することは禁止条項に反するかも知れないが、とりあえず、もし問題があれば引っ込めるということで、期間限定でここで秘かに公開しておこう。抜き刷り代わりにダウンロードしていただければと思う。

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