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世俗諦のngo boと勝義諦のngo bo [仏教]

 印度学仏教学会もあと2日と迫ってきた。チベットの研究発表とダルマキールティのパネルの両方を掛け持ちしているために、一時の休みもなく、まだ若い大学院生のように調べ物に走ったり、コピーをしたり、文献表を作ったりしている。

 直前になって、学会に参加するどれだけの方がこのブログをご覧になっているのか分からないが(おおむね、学者はブログを書かず、またブログを見ない)、もし僕の発表に少しでも関心のある方がいたらと思い、書きかけの発表原稿の一部を公開することにした。最初は全部アップしようかと思ったが、いくら何でもそれでは研究発表の意味がないので、「1. はじめに」の部分だけを、これも期間限定で公開することにした。

「どうです?こんな問題を考えているのですが、おもしろそうだと思いませんか?もしどんな結論になるか興味を持たれたら、ぜひおいで下さい」

といった効果があるかどうか分からないが、とにかく、何を発表したいかだけは公開しておくことにした。

 ダルマキールティの方についても、もう少しメモができたら公開したいと思うが、こちらは、関心を持って会場に来られる方が多いだろうと予想されるので、逆に来られなかった方に、その概要だけでもお伝えできればと思う。
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仏教を信じることの意味 [仏教]

仏教は、たぶん大部分の日本人が考えるような「宗教」ではない。宗教をどのように定義するかという問題は宗教学の重要なテーマであると、むかし大学の授業で聞いたことがある。宗教学者の岸本英夫が何度も何度も自らの宗教の定義をやりなおしたということを紹介しながらの話だった。

現在の宗教学が「宗教」をどのように定義しているかは知らないが、多くの日本人は、宗教には信仰が前提となり、その信仰は、普通の人には受け入れられないようなことを「信じる」ことだと考えているのではないだろうか。信仰を持っている人は、神仏などの絶対的な力に対する無条件の信服を持っているはずであると、特に無宗教の人たちから見たら、宗教というのはそのようなものとして映っていることだろう。

だから、仏教でも「信仰」ないしは「信心」は大事だと思われている。特に親鸞が「教→行→証」という伝統的なプロセスの中に「信」を介在させ、「教行信証」とし、その「信」ないしは「信心」も、伝統的な「信解」ではなく、阿弥陀如来から頂いた信心であるとしたことで、さらに日本仏教では信仰が重要視されるようになった。

だが、もともとの仏教では、現代の日本人が理解するような、あるいはキリスト教やイスラム教などの一神教、多神教でもヒンドゥー経のような仏教の母体ともなったと考えられる宗教における「信仰」は存在しない。

そもそも絶対的な能力を持つ絶対者のようなものは、仏教の考え方の中にはない。おすがりするような絶対的な力を持った存在はいないのである。仏は、最終的に覚ったもの、すなわち理解すべき事柄を完全に理解したもの、そしてその理解したこと自らに実現したものに他ならない。他者を救うとすれば、その人を同じ理解へと導く教師としての役割以外にはないのである。

仏教では、まずなによりも真実のあり方を「理解すること」が求められる。お釈迦様の説いたことも、無条件で信じるべきものではない。

仏教における「信」とは、正しいことを納得して受け入れ、それに対して純粋に信頼する心のことであり、その納得した正しいことを実現しようというプラスの気持ちの土台になるもののことである。

ツォンカパの代表作の一つ『善説心髄』に引用されて有名になった経典の言葉に、

焼いて、切って、こすって、磨いて金〔の真贋を判断する〕のように、
比丘、あるいは智者たちは、
私(釈尊)の言葉を、十分に検討してから実践するべきであって、
〔単に私を〕尊敬するがゆえに〔実践するべき〕ではない。

とある。論理的に徹底的に吟味し、疑う余地のないことを確認した上で、それを自ら受け入れ、信頼し、それを実現すべく修行するというのが仏教で言う「信」である。

論理的に吟味するということは、そこに非論理的であっても信じる、などということが介在しないことを意味している。どのような点から検討しても、批判することのできないほど正しい真実であるが故に、それを実現することは必須のこととなる。

ただ、ゼロから考えると言っても、われわれが自分一人で考えて正しい教えに到達できる見込みはない。それができるためには、何劫もの間、体験を重ね、思索を続け、徳を積み、覚るための準備が必要となる。それをしてきたお釈迦様だからこそ、覚りを実現できたのである。

そして、その正しいことをわれわれに示してくれた言葉があるからこそ、われわれはそれが正しいかどうかを吟味することができるのである。そのような教えを伝えてくれ、あるいはより分かりやすく説明してくれた師匠たちがいるからこそ、われわれのような知力の劣ったものでも、正しいことに到達することができるのである。

お釈迦様の言葉を正しく理解するために、われわれが何に依拠したらいいのか、そのことについても、また極めて論理的な教えが説かれている。

人に依らず、法(教え)に依れ。
言葉に依らず、意味に依れ。
常識的な知識に依らず、智慧に依れ。
未了義(解釈の余地のある)の経に依らず、了義(意味の確定した)の経に依れ。
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「ありがとう」は魔法の言葉 [仏教]

 英語で "Thank you" と言うのに比べると、日本人が日本語で「ありがとう」とは、それほど気易く言えないように思われる。もちろん、お店やレストランなど、商売がからむ場合には、たいてい店員はお客さんに「ありがとうございます」と言うし、生徒は先生に、授業の終わりに「ありがとうございます」と言ったりもする。これらは、気持ちがこもっているとはいえ、社会的な規約に基づく行為のように思われる。

 しかし、日常の生活の中で、特に身近にいる人に対して「ありがとう」と改めてお礼を言うことは、あまり多くはないのではないだろうか。考えてみたら、思いのほか少ないことに驚くに違いない。

 どうして、身近な人に「ありがとう」と言わないのだろうか。言おうとして言えないというわけではなく、近しい人には言わなくても気持ちは通じているという暗黙の了解があるのではないだろうか。それはそれで日本人的な心性だと言えないこともない。

 それは、たとえば、夫婦や恋人の間で「愛している」という言葉を言わなくても、何となく気持ちは通じていると思っているのと似ている。そう言えば、欧米人は「I love you」をきちんとパートナーに言葉に出して表現する。心は言葉に出さないときちんと相手に伝わらない、あるいは伝えないことが失礼だと考えているからかもしれない。

 日本人の関係は、何となく気持ちが通じるということで成り立っていることが多い。何も摩擦がなく、本当に言葉がなくても通じ合える関係であることもあるだろう。目を見つめるだけで伝わるものもある。言葉で伝えられないことが、手を握ったり、黙って荷物を持ったり、そういう行為の中で伝わるものもある。

 だが、世の中、そんなに以心伝心で気持ちが伝わる関係ばかりではない。相手の気持ちが今ひとつよく分からないという不安や疑惑を抱えながら関係している人たちもいるだろう。普段は仲が良くても、大げんかをして口をきく気にもならないこともあるだろう。あまりにも日常過ぎて、相手が空気のようにしか感じられない場合もあるだろう。

 そういうときに、意識的に「ありがとう」と声に出して言ってみることで、ややもすると背を向けそうになっていた関係が、再びお互いに顔を向け、心を通わせることができるようになるのである。それまでになかった新しい光が、その関係に差し始める。何か違ったものになっていると感じられるに違いない。

 何かをしてもらったら、意識的に「ありがとう」と言ってみよう。すぐにその言葉の力を実感することができる。何気なくしたことでも、それに対して「ありがとう」と言われたら、気持ちの悪い人はいない。「ありがとう」と言われて怒り出す人は決していない。

 意識的に言わなければならないとしても、それはそれほど難しいことではない。単に五文字発音するだけである。誰でも知っている言葉である。いつそれを言えばいいかも、誰でも分かることである。しかし、その効果は非常に大きい。これは「愛語」の典型である。こんなに簡単な言葉なのに、それが引き起こす心の変化は絶大である。そういう意味で魔法の言葉だと、僕は思う。

 簡単なことである。今日から、この行を実践してみてはどうだろうか。一歩、菩薩への道を進むことができるに違いない。
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韓国からチベット論理学を学びに来た [仏教]

 京都での時間は矢のように過ぎていく。常に駆け足で動いているようである。昼食を摂る時間も満足にはない。空いている時間に様々な打ち合わせなどが入ってくるので、昼食は授業時間にかかってしまったりする。

 どうして忙しいかは、自分でもよく分からない。シンプルな生活とはとても言えないということだろう。人文情報学科という学科に属していることが忙しさの原因なのかもしれない。専門はチベット仏教だから専門の研究とは異なったことを教えていることになる。それは仕方がないこと、というわけではない。僕は、必要があれば、高校生相手に、あるいは高校の先生相手に教えたりすることもある。仕方がないからではなく、教えられることがあるから、教えようと思ってしまうのである。

 それが僕の基本にある。教えられることがあり、教えられるのに、教えないでいることはできない。学びたいという人がいれば、空いている時間を当てて教えてあげる。自分の時間は、こうして減っていく。

 今年度、韓国から大谷の大学院修士課程に一人の留学生が来た。一昨年、まだ学部生の頃に、その学生は佛教大学に留学していた。そのときは日本語を勉強し、また専門を考えることなく仏教一般の勉強をしていたようだ。たぶん、そのときに小野田先生の薫陶を受けたのだろう、チベット仏教の論理学に興味を持った。そして、いくつかの論文を読んでいくうちに、僕のもとに留学したいと考え、修士課程に入って再び日本に、そして大谷大学に留学してきた。

 今、チベット仏教を研究したいと言う学生は非常に少ない。驚くべきことに、と言ってもいいだろう。世の中のチベットへの関心が深まっているのに、研究者は、特に日本の研究者は非常に少ないのである。欧米では、チベット人僧侶が多数住んでいて、チベット寺院を開き、布教をしている。欧米の若い学生が仏教を勉強しようとするとき、まずチベット仏教から入る例が多くなっている。

 それに対して、日本にはチベット寺院は広島に一つしかない。身近にチベット人僧侶がいないので、学生はチベット語もチベット仏教も学ぶ機会がない。日本人の先生が教えればいいと思うかも知れないが、それを教えられる人は、やはり極めて少ない。要するにチベット仏教の研究者が少ないので、教える人がいないため、チベットを研究しようという学生も出てこない、そして次の世代もまたチベット仏教の研究者が現れない、という悪循環になっている。

 その韓国の留学生は、最初からチベット仏教の論理学を研究したいと考え、そのため留学してきたのである。留学期間は1年で、来年度は修士論文を書くという。普通、チベット語文献を読めるようになるには、毎週手解きをして、3年ほどかかる。その時間はないし、最初から目的がはっきりしているのであるから、僕は週に3回、講読会をすることにした。

 もともと、一コマはやっていたので、プラス2コマである。読むものも、論理学をメインにして、チベットの僧院で行われている問答のテキストと、ツォンカパの弟子であったダライラマ1世の論理学概論と、そして昨年から読んでいるツォンカパの主著の一つ『善説心髄』の唯識の章とである。他に、前回書いたインドの仏教論理学の概説『論理のことば』の講義にも出席している(そのチベット語訳を並行して読むようにアドバイスしてある。)。

 その留学生は、よく予習をし、また自分でもできるだけ考えてくる。講読中も、納得できるまで考えてから次に進むようにしている。仏教論理学は僕のところで勉強するのが初めてであり、基礎的な概念も全てゼロから教えているが、よく着いてきてくれる。一度、学んだことは吸収して、二度目にはきちんと訳せるようになっている。時間との勝負ではあるが、僕の教えられる限りのことを教えようと思っている。

 以上の講読と講義、そして東大での講読は録音データを作ってWebにアップしている。分からないところがあったり間違っているかもしれないし、また板書までは再現できないが、それでも、もし同じテキストを読もうとする初心者がいるならば、参考になるだろう。(最近、少しさぼっていてアップが遅れています。)
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難しくとも考える価値がある [仏教]

 今年度の前期、大学院と学部の共通の授業で「中・後期インド仏教思想」という講義を受け持っている。講読なら楽なのだが、講義となると話す内容を全部組み立てないといけない。そこで負担のないやり方でよければ、ということで引き受けた。僕にとって負担無く、かつやる気もでるものとして、モークシャーカラグプタというインド仏教最後期の人の書いた仏教論理学の綱要書『論理のことば』(梶山雄一訳)を、最初から丁寧に一節一節解説していくことにした。

 この訳本は、比較的正確であり、もともと学術的業績としての英訳をもとにご本人が和訳したものである。定評もある。また、インド仏教最後の時期ということもあり、コンパクトな中にそれまで戦われてきた様々な議論の要約が詰め込まれているということもあって、インドの仏教論理学の入門書としてもっとも幅広いテーマを扱っている良書である。

 しかし、いくら正確で分かり易い訳とは言え、日本語だけを読んでいたのでは理解できない箇所がたくさんある。しかも、分かる箇所であっても、初めて仏教論理学に触れる初心者が日本語訳だけを頼りに理解するのは難しい。そこで、手ほどきをしてあげる必要がある。そんな授業にしようと思った。

 当初大学院の授業と言われていたが、蓋を開けてみたら、学部との共通で、しかも受講生40名のうち、大学院生は数人、あとは全部学部生という状態だった。そもそも学部生と大学院生を一緒に教えるには無理がある。もし共通授業であれば、通常は大学院生に合わせた授業で、学部生はそれを分からないところがあっても、学問の現場を目の当たりにするという意味で参加する、という感じで行われることが多い。

 僕もそのレベルで授業を始めた。といっても、本当に大学院レベルと言うわけではなく、そもそも仏教論理学の初心者という点では大学院生も学部生も変わらない。だから全ての概念を一から説明していくという手法は両者に通じるはずのものである。大学院生と学部生の違いは、理解力と基礎知識の差である。

 その他のインド仏教の哲学をある程度知っているかどうかという点でも、違いは大きい。学部生は唯識も中観もなにも知らない。一方大学院生はその位のことは分かっている、あるいはこれまで読んだり学んだりした経験がある。そういうものなしに、いきなら、全てが新しい概念で構成されている仏教論理学の本を読んでも、着いていくのさえ危ぶまれる。

 しかし、仏教論理学は、中・後期以降のインド仏教のあらゆる側面に浸透していて、そういう概念の枠組みの中で仏教思想が語られることになる。また純粋な仏教論理学に限っても、膨大な著作が残されている。さらにインド仏教を受け継いだチベット仏教では、僧院に入門した若いお坊さんは、まず最初にこの論理学を徹底的に学んでから他の分野の勉強に進む。つまり、仏教論理学の重要性は明らかなのである。

 問題は難しいことは敬遠するという昨今の大学生の傾向である。学生による授業評価のアンケートをとることが全学的に決まっている。いろいろな評価項目があったあと、最後に感想を書く欄がある。7月に入って実施したアンケートの回答をみていると、学部生からは「難しすぎる。何を言っているのかさっぱりわからない。こんな授業に何の意味があるのか分からない。時間の無駄だと感じる。トークをもっと工夫した方がいい。話が早すぎて分からない」などの否定的な感想ばかりであった。別に書かなくてもいい欄なので、わざわざそんなことを書くのは、よほど腹が立っていたのだろう。

 現代の大学生の勉強(学問ではない、そこまで行っていない。)は、世間が思っているよりも遙かに低い。学問的な水準の話をできるところはほとんど無い。それをできるだけ消化し、とろとろになるまで煮て、おじやくらいにして、ふうふうしながら少しだけ口に運ぶ、そんな状態である。

 大学で勉強してきました、という顔で社会に出ても、それがどれだけの勉強になっているのかはとても怪しいのである。世間が期待するレベルの勉強は大学院に行かないとできないのである。そこで、大学はもはや学問の場ではなく、サービス業と化している。学生サービスが第一に叫ばれ、学生を飽きさせずにどう導くかの技術、要するに教育能力が問われるようになっている。それが社会的通念ならば、社会も大学に学問的な授業を期待していないということにもなるだろう。

 しかし、問題は、学問の水準を伝えられないというだけではない。学生は難しいとそれも敬遠するようになる。先ほどの感想では、難しすぎる、時間の無駄、もっと工夫しろ、ということになるのだが、もしそうならば、彼らにとって、重要であることを学ぶよりも、自分を分からせてくれるものだけを提供しろと言っているようなものである。かれらには過去の人たちが時間をかけ努力をして築いてきた膨大な文献も、難しければ、何の価値もない、それは「自分たちにとって重要ではない」というだけ、学ぶ必要がないと考えてしまうことである。

 たとえ彼らの理解力できないとしても、それは人間が考えて残した思考の膨大な記録であり、その前に立って、かれらの「わかんねー」にどれほどの意味があるのか、考えたことがあるだろうか。しかも、初心者であることを考慮して、和訳を使い、その和訳でも難しいだろうから、一々を説明している。より難しく、学問的に説明しているのではなく、図を使いながら、より分かりやすい表現で説明している。それでも分からないのであれば授業を受ける資格はないのである。

 哲学などの抽象的な分野の学問には向き不向きが厳然としてある。昨今はそういう哲学よりも、アンケートや意識調査で傾向が分かるような具象的な社会学のようなテーマの方に、あるいは自分の気持ちが分析できる心理学のような分野の方に人気がある。世の中の思想的な本を書いている人たちを見ても、思想家や哲学者はほとんどいない。文化人類学、社会学、政治学、宗教学、心理学者、理科系の学者、あとは評論家、そんなものである。

 具象的なものにしか馴染んでいない人にとって、認識や存在や論理や必然性などといった議論を、独自の概念を用いて展開している仏教論理学が縁遠いものであるのは明かである。だから、授業にそういうテーマを選ぶべきではない、というのが彼らの言い分であり、また社会の言い分でもあるだろう。

 だが、僕にはそんなとろとろに薄められたものをスプーンで飲ませるようなことをする気持ちにはなれない。考える価値のあることだから考える。難しいからこそ考える。仏教思想というのは、そもそもそういうレベルのものだからである。
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経済行為とありがとう [仏教]

 大学で教師をしているということは、大学が学生(の親御さん)から授業料をいただき、僕が大学から給料をもらっている、ということになります。それで生活をし、僕の場合は新幹線代なども出し、また本を買ったりもしています。まあ、給料としてもらえば使い道は特に限定されているわけではありません。

 学生の方からすれば、かなり高額な授業料を払い、その対価として授業なり指導なりを受けているわけです。ですから、教えてもらえるのは当然のことのはずです。

 しかし、たとえば、授業のあとや個人指導のあとに、学生は「ありがとうございました」と言ってくれます。これはどういうことなのでしょうか。
 
 同じようなことは、お店で食事をしたときにも見られます。食事を終えて出て行くときに、僕たちは「ごちそうさまでした」と言うでしょう。お店の人は「ありがとうございました」と言いますよね。お店の人の言葉は、お金を払ってもらったことに対してのお礼かもしれませんが、「ごちそうさま」という僕たちの言葉は、お金を払って受け取ったものに対して言っているので、学生が言う「ありがとうございました」と同じ趣旨です。

 お店の人だって、そのお金を恵んでもらったわけではなく、食事を作ったことに対する代金なのですから、もらって当然で、お礼を言う必要はないかもしれません。

 何が言いたいのかと言うと、お金の流れのような経済行為と、人に何かをしてあげ、またそれに感謝をする、というのは、切り離された別次元の問題だということです。何かに感謝したとき、自然に「ありがとうございました」や「ごちそうさまでした」という気持ちが生まれ、そしてそういう言葉が出てくるのです。そういう気持ちや言葉は、自分の心にも、そして相手の心にもいい影響を残していくでしょう。教えたり、教えられたり、食べ物を作ったり、それを食べたりすること、これらも人と人の間の行為ですが、それがいい関係を築けたとき、感謝やお礼の言葉になり、それがまた人と人の間の一つの行為になって、後々に影響を残していくわけです。

 こういう気持ちや言葉を仏教では意業・語業といいます。この業とは、その行為が何かの影響を後に残していくことを指しています。その影響はどこに残されるのでしょうか。これまで僕が書いてきたことからお分かりのように、それは自分や相手の心に残されるのです。いや、少し言い方が正しくないかもしれません。その行為の影響で心が少しずつ変わっていく、いい方向に変わっていく、と考えた方がいいでしょう。何か「物」が心に残されていくわけではないのですから。

 経済行為は、こういう人と人とが関わり合う可能性を開いているだけで、そこでどのように関わり合い、どのような関係を築いていくかは、その時々のそれらの人同士の心の持ち方によって決まっていくのだと思います。だとすれば、やはり、何をするにせよ、心を込めて行い、そういう心に触れることで、また誠意を返していくことで、自分の心も相手の心も少しずついい方向に変えていきたいものです。実際には、なかなか思い通りにいかないことが多いとは思いますが・・・。


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ワンちゃん、草木を大切にしてね! [仏教]

 これは、うちの近所の慎ましやかな豪邸の塀の植え込みに差してあった小さい立て札に書いてあった言葉です。

 この立て札の言いたいことは、分かりますよね。植え込みに犬がおしっこをしていくので、困っているのです。普通、そういうときには、「犬のおしっこ、お断り。」とか「フンは飼い主が始末しましょう。」とか、要するに飼い主に向けて注意を促すプレートを貼っていることが多いでしょう。しかし、その家では、飼い主ではなく、犬にお願いする立て札を立てていたのです。

 その家を「慎ましやかな豪邸」と言ったのは、広大な屋敷というわけではなく、最近建てられたにもかかわらず木造和風の邸宅で、実にしっかりした柱を使って立てられています。門かぶり松があったりもします。うちと違って家の手入れも行き届いています。だから、犬のうんちやおしっこには迷惑していると思うのです。

 しかし、その家の豪華だけど慎ましさを感じさせる造りと、ワンちゃんに向けて書かれた立て札の慎ましさとには、何か通じるものが感じられました。困っていることを直接、あからさまに伝えるのではなく、犬に語りかけることで伝えようとする姿勢には、飼い主への気遣いが感じられます。犬の視点に立っている、ということもいいですね。

 僕は犬を飼っていないので、その立て札の対象外なわけですが、これを読んで、その品のよさに幸せな気持ちになりました。「怨(うら)みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」逆に優しく気遣うことによって、その穏やかな気持ちは回りに伝わり、人々を幸せにしていきます。またそうやって優しい気持ちになった人にも、回りに対して気遣い優しくなれる種を蒔いたことになるのです。こうして、その人は自らにも他の人にも徳を積ませたことになるのでしょう。


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どうしてみんなから慕われるのか [仏教]

 昨日(11月10日)、京都の叔母の葬儀・告別式・初七日法要に行ってきました。

 僕は叔母とは、妻と結婚してからの知り合いで、しかも、大体は法事の席で会うくらいでした。一度、夫婦で京都で学会があるときに、宿が取れずに2、3日泊めてもらったこともあります。葬儀に出席した他の親族は、叔母の兄弟だったり、その連れ合いだったり、その子どもたちであったりと、僕よりもずっと長く叔母と接してきた人たちばかりでした。

 兄弟の中で一番年上だった叔母は、そういう長女の典型のような人柄で、いつもにこにこして、強い自己主張もせず、しかし、ちゃんと自分の意見を持ち、自分の道を追求してきたようです。かなりの高齢になるまで、旅行にもよく出かけていました。今年に入ってからもどこかに行ったそうですし、そういえば、僕が最後に会ったのは、今年の6月に京都で法事があったときでした。葬儀の部屋には、今年の作品で賞をもらったという縦1.5m、横1mくらいの日本画が置いてありました。書道もやっていたそうです。中でも一番古くからやっていたのは、民謡だったそうです。その民謡をやっていた仲間が告別式に参加して、弔辞と弔歌を捧げていました。

 弔辞を述べたのは、その民謡の先生でした。目が不自由らしく、別の人に連れられて、焼香をされ、叔母に呼びかけるように話されました。目が不自由なので何も見ずに、しかし、実に正確に出会った日時、それは25年前の8月7日のことで、それから12年間、叔母はその先生のもとで民謡を勉強し、それから別の先生について勉強したそうです。叔母がどのように民謡に取り組んだか、あるいは発表会でのこと、後進の育成のこと、などの思い出を叔母に向かって語りかけていました。僕の知らない叔母の姿に、そしてそれを本当に愛おしそうに切々と訴える、その民謡の先生(因みにおじいさん先生です。)の言葉に、僕は、思わず目頭を熱くしました。

 先生は、そのあと、別の仲間の尺八の伴奏で、叔母へ贈る言葉、そして死んでいった叔母が残されたものに贈る言葉という内容の民謡を歌いました。民謡にもこういうメッセージ性があるのを、初めて知りました。

 叔母は民謡の唄だけではなく、三味線の勉強もしていました。その三味線の先生(こちらは女の先生です。)が次に三味線を弾いて、別の男の人が唄い、三人のおばさんが合いの手を入れる、民謡も披露されました。その三味線の先生は、叔母の部屋にやってきて、三味線を教えていたそうです。こうやって仲間の人たちがみんな心から叔母を慕い、逝去を悼み、その気持ちを唄に託して叔母に捧げている姿は、本当に感動的でした。

 叔母はどうしてこんなにみんなに慕われていたのでしょうか。それは叔母の性格が人を幸せな気持ちにさせていたからではないかと思います。叔母と接すると、マイナスの感情が薄められ、自分の中のプラスの感情が引き出されてきたからではないかと思います。それが叔母の「功徳」になっていたのです。

 相手に対して微笑んだら、怒り出す人はいません。微笑まれたら、それによって自分の心の堅い部分が溶かされ、温かく幸せな気持ちになるでしょう。優しくして怒る人はいません。優しくすれば、そのことで何らかのプラスのことが返ってくるのです。それが善因楽果、つまりいいことをしたら、幸せな結果がやってくる、ということの意味だと思います。もちろん、なかなかそういうことはできるものではありません。僕には無理かもでしょう。しかし、そういう気持ちは少しでも人に伝播していくものなので、叔母の人生の一端に触れて、僕の中にも功徳を積む種が植えられたように思います。


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