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svabhāvapratibandhaについての対話 [仏教論理学]

svabhāvapratibandhaについて、「それは方向性の問題でしょ。それならコンセンサスは形成されたのではないですか」という意見をよく聞く。確かに「コンセンサス」という意味では、多くの人の意識に焼き付いたかも知れない。しかし、僕が言いたいことはそんなことではなかった。そして、ふたたびそれは理解されることはないような気がしてきた。多くの人たちが「方向性」という方向に流れていき、その言葉にダルマキールティが込めたと思われるニュアンスは失われていくと僕には思える。

次のような質問があった。

福田先生がpratibandhaを「従属している」「依存している」と訳したほうが良いと主張なさるのは妥当だと思いますが、その訳語を用いることによってダルマキールティの文章を読んだ時のメリットと、「結合している」「結び付いている」という訳語を用いた時のデメリットが知りたいです。(sādhya)-loc. (sādhana)-gen. pratibandhaという構文から、論理的指示関係を導き出すことができるのなら、どちらの訳語を用いても構わないのではないでしょうか。

pratibandhaを「結合関係」と訳した時、ダルマキールティの文章を理解する際にどのような不都合が起きるでしょうか。論理的指示関係があることはすでに学界でも認められてきたようですが、その論理的指示関係を念頭に置きながら「結合関係」と訳すのはナンセンスですか?

倶舎論で「結合関係」というふうに訳すとまずいのは分かりますが、それは倶舎論での話で、まさに先生も仰ったように、ダルマキールティは従来のpratibandhaの理解から離れて新たな意味でpratibandhaということばを使っているのですから、倶舎論での不都合は理由にならないと思います。

以下は僕の回答の一部である。

僕の理解は、シチェルパツキーのようにexistentially dependent on ということです。これを見たとき、実にすばらしい訳だと思いました。みんなが結合関係と訳すずっと前の訳です。svabhāvaは、「実存existence」だと以前に言ったことを覚えていますか。論証因の実存が所証に依存しているのです。ですから、単に結合したり関係したりしているわけではありません。つまり結果の存立が原因に依存し従属しているということです。ですから原因を無くせば結果は存立し得ません。その感じを「結合関係」という言葉で表現できますか。

論理的指示関係という言葉さえ誰も使っていません。僕一人が使っています。そのsvabhavapratibandhaはその論理的指示関係の根拠になるものです。論理的指示関係は後から出てくるものですし、それを最初からsvabhāvapratibandhaに読み込んではいけません。svabhāvapratibandhaだけで、ある「関係」を表現しています。それが、その存立が他のものに「決定的に従属し依存している」ことです。ダルマキールティは論理的な関係の意味でpraitbandhaを使用したのではありません。その「決定的に従属し依存している」ということを術語化しただけです。

svabhāvaについて、それを「実存」などというのは、もっと理解力を要する話だと思います。多くの人は理解しないでしょう。あれだけ言っても、praitbandhaについて「方向性」のことだと言っているくらいです。方向性なんて、当たり前のことで、だからみんなは簡単に同意をするのです。問題は、方向性ではなく、そのものが存在するために他のものに依拠しなければならない、ということなのです。

質問者の言及の中で、「ダルマキールティは従来のpratibandhaの理解から離れて新たな意味でpratibandhaということばを使っているのですから」とあったが、これは僕がインド論理学研究会(7月7日・駒澤大学)で話した内容に基づいている。

『倶舎論』や『翻訳名義大集』では、pratibandhaは「妨げるもの」という意味でしか使われない。それに対してpratibaddhaは「依存する、従属する」という意味が第一義である。これは両書のチベット語訳がともにそうなっていて、さらに『倶舎論』の漢訳も同様である。

ところで、ダルマキールティの用例から svabhāva-pratibandha = pratibaddha-svabhāvatva という等式が導き出せる。すなわち、pratibandha とは pratibaddhatva である。pratibandhaには、論理的指示関係の基盤になるような意味はない。しかし、pratibaddhaならば、A-pratibaddhaで、Aに依存する・従属するという意味になり、Aに従属・依存しているものは、そのA無くして存在し得ないことになる。言い換えれば、それが存立するためにはAの存在を必ず要請する。したがって、Aを推知させることができる。

ダルマキールティが、このような意味のpratibaddhasvabhāvatvaをsvabhāvapratibandhaと術語化したとき、当時の人々は、「svabhāvaを妨げるもの」という意味を頭に思い浮かべ驚いたのではないだろうか。もちろん、それでは意味は通じない。そこでpratibaddhasvabhāvatvaの意味であると知って、「そのsvabhāvaがpratibaddhaしているもののみが所証を理解させる」すなわち、その存在が他のものに決定的に従属しているもののみが、それが存在することによって他のものの存在を確実に推知させることができる、という意味でsvabhāvaがpratibandhaしている、という新たな「意味」が、インド哲学の世界に創出されたのであろう。それ以降は、人々は、現代の研究者に到るまで、pratibandhaを「妨げるもの」という意味ではなく「結合関係」の一種と考えるようになってしまったのである。しかし、もともとダルマキールティは「結合関係」の一種としてこの語を用いたのではなく、そのものが存立するためには、他のものの存在を必要不可欠なものとして要請するといういみで、他のものの存在に決定的に依拠し従属していることを、論理的指示関係の基礎に据えたのである。

というようなことを発表はしたが、人々の頭の上を通り過ぎる無常な風になってしまったようである。
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パネル「討論 svabhāvapratibandha─ダルマキールティ論理学の根本問題」を終えて [仏教論理学]

 7月1日日本印度学仏教学会学術大会の2日目の午後、4つのパネルが企画されていた。僕はそのうち、唯一インド仏教関係のかなり学術的(ということはオタクな)パネルに参加した。タイトルが、どの一言をとっても関係者を惹き付けねばおかないような扇情的なタイトルである。

 討論 そもそも日本の学会で議論を戦わすことなどほとんどないのに?
 svabhāvapratibandha これについてはかつて多くの人が魅了されて、みな一言いいたいことがあるはず。
 ダルマキールティ インド仏教論理学最大の哲学者で、この人の影響のもとにインド仏教のみならずインド哲学諸派の認識論・論理学が大きく変容していった最重要人物
 その論理学の根本問題 「根本問題」?根本だといわれたら、それを聞かずに済ますことなどがどうしてできようか。

といった具合である。戦後の全世界の仏教論理学は、ウイーン大学のシュタインケルナー教授が牽引車となり、その元にほとんど全ての仏教論理学の研究者が集い、留学し、学会を催してきた。そのシュタインケルナー教授の主張の中から、svabhāvapratibandhaが最も重要な概念だと指摘し、人々の注目を集め、研究の火付け役になったのは駒澤大学の松本史朗さんである。同じ駒澤大学の金沢篤さんと僕とで30年前に読書会をしていたことは以前に記した。三人が発表した論文は、その後の論理学研究ではほとんど影響を与えることなく過去の古雑誌の中に埋没しかかっていた。

そしてシュタインケルナー教授とともに世界の論理学研究を牽引してきた、わが桂紹隆先生の最近の論考に対して、金沢さんが激烈な批判を投げかけ、一体この30年の歩みは何だったのかと問い質した。それに対して、当の桂先生が、その批判に答えようと、パネルに参加することを引き受けてくれた。

そんな経緯があったので、誰もがこの扇情的かつ本質的なタイトルと参加者に目を奪われ、会場を満員にしてのパネルとなったのである。

パネリストは、他に次の面々である。

1. svabhāvapratibandha 研究の見取り図 片岡 啓
2. svabhāvapratibandha とavinābhāvaniyama の関係をめぐって 石田 尚敬
3. 三度目のsvabhāvapratibandha  福田 洋一
4. svabhāvapratibandha とavinābhāva  金沢 篤
5. svabhāvapratibandha について、金沢批判に答える 桂 紹隆

150分休みなしのはずなのに、全く時間の経過を感じさせない密度の濃い、集中した議論が行われた。実際は少し超過したから160分と言っておこう。普通、これだけの長さがあったら中だるみがありそうなのに、人々の頭は一時も休むことなく動き続けた。

ほんとうは、何かのコンセンサスを作れたらいいねと金沢さんとは話をしていたが、それができたのか、できなかったのか、あるいはできる必要があったのか、その可能性さえあったのか、分からない。

おそらくそれぞれの主張は、そのときの議論を踏まえ、来年初め刊行予定の『インド論理学研究』に掲載されるはずである。僕自身の主張の一端は、前のブログに期間限定で掲載してあるし、僕の用意した配布資料(ほとんど読み原稿に近い。)はここに置いておくことにする。

このパネルの総括については、7月7日の駒澤大学で開催される「2012年度第1回インド論理学研究会」にて話をすることになっている。関心のある方は聞きにきていただければと思う。
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学会前に刊行予定論文の限定公開 [仏教論理学]

 印度学仏教学会学術大会まで現時点であと5日となった。研究発表にパネルの発表と両方をこなすのは、大変なことである。その上、何度も『インド論理学研究』誌に寄稿しようとしては挫折してきたsvabhāvapratibandha関連の論文も、学会前に何とか仕上げなければと、最後の力を振り絞って(というわけではないが、ともかく綱渡りの時間配分をして)、テーマを極小に絞って、何とか論文は書き上げた。タイトルは、「svabhāvapratibandhaの複合語解釈」『インド論理学研究』第4号に寄稿した。

 今度の印仏学会でのパネルの内容に即したものであるので、パネルの前にも、関心のある方にはご覧頂ければと思い、まだ最終稿版下ではないが、Draft onlyということでPDFを期間限定で公開しようと思う。

 7月7日に、駒澤大学で2012年度第一回インド論理学研究会が開かれ、そこで、今回のパネルを終えての所感を話すことにしているので、その時までの限定公開としよう。『インド論理学研究』第4号は7月に刊行予定である。

 テーマは、文字通りsvabhāvapratibandhaという複合語をどのように分析し解釈するかということであると同時に、その前提として、いくつかの関係概念を整理した。使用したテキストは『プラマーナ・ヴァールティカ』ではなく、最も簡略な『ニヤーヤ・ビンドゥ』である。そのうちの第二章「svārthānumāna」の2.18〜2.24という短い部分の分析をしている。

 現在は、ツォンカパの二諦説についての研究発表を準備しているので、パネルの方の準備はそれが終わってから。大まかな内容は、こちらのページに上がっているものの予定である。この調子では、土曜日に研究発表が終わってからパネルの資料作りにとりかかるような予感がする。懇親会に出られそうもない。
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討論 svabhāvapratibandha─ダルマキールティ論理学の根本問題 [仏教論理学]

 しばらくぶりの更新になってしまった。

 2012年6月30日、7月1日の土日に、鶴見大学で印度学仏教学会学術大会が開かれる(プログラムのPDF)。

 そこでの発表を予定しているので、それまでの経過報告などをつぶやきたいと思ったのだが、ツイッターでは短すぎるので、こちらのブログで、発表内容についての情報をアップしていきたいと思う。

 この学会では僕は二つの発表をすることになっている。一つはチベット仏教でもう一つはインドの仏教論理学者ダルマキールティについてである。チベット仏教の方は、毎年発表しているツォンカパの中観思想についての発表である。題して

kun rdzob bden pa'i ngo boとdon dam bdan pa'i ngo bo ──『入中論』第6章第23偈の解釈をめぐって──

である。要するに『入中論』で最初に二諦説が出てくる偈の解釈をめぐってである。もちろん、話の中心はツォンカパである。全ての事物は「世俗諦のngo bo」と『勝義諦のngo bo」という二つのngo boを持っているという『入中論』の偈の意味をツォンカパはどのように解釈しているのか、特にngo boをどのような意味のものと考えたらいいのか、それを考察する。これについては、また別の機会に書くとして、もう一つの発表は、

パネル「討論 svabhāvapratibandha─ダルマキールティ論理学の根本問題」

と題するパネルの発表である。これはインド論理学研究会という、このブログでも以前紹介した研究会が中心となって企画したものである。この研究会のそもそもの発端が、松本史朗さんの印仏研の論文「svabhāvapratibandha」(30-1, 1981)執筆のための読書会であったこと、そして松本さんが着目して以降、これがダルマキールティ論理学の根本思想の一つとして多くの研究が積み重ねられてきたこと、に由来したタイトルを冠したのである。

 このパネルの趣旨および発表者の顔ぶれ、さらに各発表者の発表要旨については、インド論理学研究会のブログで紹介されているので、そちらをご覧頂きたい。また、svabhāvapratibandhaという概念についての研究の流れについては、発表者の一人片岡啓さんのブログにも簡単な紹介がアップされている。

 ここでは、ある程度ダルマキールティの論理学についての知識を前提として、僕の考えていることを少しずつ説明していきたいと思う。当日の発表時間は限られ、また僕自身の理解が、他のダルマキールティ研究の本流の人たちと大きく違うため、ある程度の地ならしをしておきたいと考えてのことである。

 さて、僕自身は、松本さんの論文のあと、svabhāvapratibandhaについて印仏研に二つの論文を書いた。今はいい時代で、こういう過去の論文のPDFが公開され、誰でも即座に参照できるようになっている。一つは、1984年の「ダルマキールティにおける論理の構造への問い」(『印仏研』33-1)で、もう一つは1987年の「ダルマキールティの論理学におけるsvabhāvapratibandhaの意味について」(『印仏研』35-2)である。今読み直してみると、この3年の間に、論文の書き方は随分変貌している。1984年の論文は、自分でも何を書いているのか、にわかには理解しがたいような、抽象的、観念的、思弁的な内容の論文である。その中のいくつかの言葉を除いては、もはや論文自体は必要ないのではないかと思えるほどである。

 一方、1987年の論文は、これも挑戦的、挑発的で、丁寧な議論などすっ飛ばして、結論だけを書き連ね、その論拠になるテキストは、説明もなく訳もせずにずらっと列挙しただけの代物であった。それでも、前のものよりはずっと具体的で、いくつかの論理のほころびや、曖昧な点、言い過ぎている点などがあるにせよ、基本的な理解は今も変わっていない。僕は、このパネルでの発表の前提として、『インド論理学研究』にこの簡潔すぎる旧稿を、もう少し丁寧に説明するような論文を書こうと考えた。考えたのは今年の初めだったが、実際にやってみると、単純に「丁寧に説明する」だけでは済まなくなり、いろいろと書き足している内に収拾が付かなくなっていた。まだ学会までには何とか書きたいという希望を捨てたわけではないので、このようなブログなど書かずに論文に集中しろよ、ということではあるが、万が一、書けなかったときのために、非公式にでも僕の考えをざっくばらんに書いておくことにも意味があるだろうと思って、この記事を書いている。

 さて、僕のsvabhāvapratibandhaについての理解は、また次の記事に書くこととして、他に関連する論文についても簡単にコメントをしておきたい。ダルマキールティは、svabhāvapratibandhaには二つのタイプがあると主張した。一つは、「それから生じることtadutpatti」であり、それによって結果から原因を推知させることができる。もう一つは「それと同じ存在を持つことtādātmya」で、それによって同一のものについての、「Aであるものは全てBである」という形での推理させることができる。このtādātmyaは、別にtadātmatvaとか、tadsvabhāvatvaとかと言われるのだが、その複合語および意味の解釈については、諸説あって、議論になっている。ある人は、「それを本質としている」と解し、ある人は「それの本質である」と解する。いずれの場合も、主語は論証因で、「それ」という代名詞は所証(sādhya)を指している。

 さらに、そのような分解はあまり意味がないと考え、これは概念としての論証因と概念としての所証が「実在において同一であること real identity」の意味である、と主張する。

 この問題について、哲学的に考えてみたのが、1991年の「自己同一性について : ダルマキールティ論理学におけるtadātmatvaをめぐって」(『前田専学先生還暦記念:我の思想』春秋社. pp.655-666) という論文であった。このころ僕は、tadātmatvaを「それをātman、すなわち自己存在としていること」という複合語として考え、あるものがあるものを自己存在と言えるための条件は何か、という問いを立てた。ダルマキールティは、その条件としてbhāvamātrānurodhin「その存在全てに共通に随伴していること」を挙げているが、さらに周到に「他のものに依存していないことnānyāyatta」とも付け加えている。多くの人は、この上の条件のmātraを「のみ」という意味に解し、「そのもののみに随伴していること」と「他のものに依存していること」を逆の意味であると理解するようであった。つまり「そのもののみ」とは「他のもの」の否定であり、「随伴していること」と「依存していること」は同じような意味であると、何となく理解しているようである。

 それに対して、僕は「他のものに依存する」というのは、「そのものが生じる原因以外のものに依存する」ことであると考え、そのようにそのものが生じるための原因以外のものに依存すると、そのもの全体に普遍的に随伴することがなくなり、何らかの限定が生じることになる、したがって、mātraというのは、そのような限定がないことであり、それによって、そのものの全ての成員に等しく成り立つという条件が満たされると考えた。もちろん、勝手に考えたわけではなく、ダルマキールティが、存在するものの刹那滅性を論証する議論に使われる原理から抽象し、一般化したものに他ならない。
 そんなことを背景に考えながら、ただ、インド学仏教学の論文らしからぬ体裁で書いたのであった。さらには、そういうスタイルを貫徹するために、やや無理な誘導をしたりして、その部分については論理的な破綻もしているかもしれないのである。本当は、ダルマキールティの「刹那滅論証」について、きちんと原文に即した議論を書くべきであったのだし、今ならそうするであろう。それ以前もそれ以降も、この「刹那滅論証」については多くの論文が書かれている。それらに全部目を通すならば、あるいは僕が言おうとしていたことを誰かが既に言っているかも知れない。だが、もしそうならば、tatsvabhāvatvaの重要な条件であるmātrānurodhinとnānyāyattaについて、「そのものだけに随伴し、他のものには依存しない」などという訳をそのままにしておくはずはないと思う。つまり、正確に刹那滅論証の「意味」を理解するならば、そのような訳にはならないはずなのである。

 ということで、この論文も、今となっては反故にしたいのではあるが、原文に即した論文を書くまでは、そのまま、そっとしておく方がいいだろうと思っている。

 ちなみに、この論文を収録しているのは販売されている本であり、電子データが公開されているわけではない。著作権は僕にあるとしても、印刷された版面には出版社の権利も含まれる。それを一般に公開することは禁止条項に反するかも知れないが、とりあえず、もし問題があれば引っ込めるということで、期間限定でここで秘かに公開しておこう。抜き刷り代わりにダウンロードしていただければと思う。

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