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ダライラマ法王とチベット研究者の茶話会 [チベット]

 11月19日、ダライラマ法王とチベット研究者の茶話会が開かれた。50名という限られた人数のため、一般公開されたものではなかった。口コミで声をかけたが、測ったように50名が集まり、用意された席がちょうど一杯になった。

 法王は、午前中は増上寺での法要があり、午後には突然謁見の予定も入って、茶話会の部屋にいらっしゃったのは、予定よりも30分遅れであった。最初に法王から簡単なスピーチをいただいた後は、研究者との質疑応答に移った。予定では1時間ということであったが、終わってみれば、1時間30分以上、質疑応答をしていただいた。そのあとは法王を囲んで集合写真を撮影し会は4時すぎに終了した。

 茶話会そのものの報告は「白雪姫と7人の小坊主たち」でアップされるので、そちらを見ていただくこととして、僕がお聞きしたことについてここで報告と解説をしておこう。

 法王には、ツォンカパの中観思想における rang gi mtshan nyid kyis grub pa という概念の意味をお聞きしたいと思っていた。研究者との質疑応答であるので、時間の節約のため英語は通訳なしになりそうということだったので、僕は予め英語で三つの質問を用意していった。

 ツォンカパの最終的な立場である中観帰謬論証派の説では、世俗においても、rang gi mtshan nyid kyis grub pa なものは存在しない。それに対して、中観自立論証派は、勝義においては rang gi mtshan nyid kyis grub pa なものは存在しないが、世俗においては存在すると主張する。それ以外の学派は、勝義においてもそれがあると主張する。それゆえ、この rang gi mtshan nyid kyis grub pa なものの存在を、世俗においても勝義においても否定することが、中観帰謬論証派を他の流派から区別する根本的な相違点の一つということになる。

 そもそもこの概念の意味が問題なので、ここでそれを日本語に訳すわけにはいかないが、ひとまず直訳するならば、「自らの特質によって成立しているもの」と訳すことができる。ただし、これは僕の解釈に基づく訳であって、一般には「自相によって成立しているもの」あるいは「自相として成立しているもの」さらには「本質的に実在しているもの」という意訳や「自相成立」という省略した訳も行われている。

 まず、rang gi mtshan nyid を「自相」と訳すことには問題がある。なぜならば、「自相」という訳語は、論理学で直接知覚の対象を意味する svalakṣaṇa の訳語として用いられ、これはチベット語で rang mtshan という省略された訳語が当てられる。ツォンカパ自身は、rang gi mtshan nyid が、論理学で言う rang mtshan「自相」とは別の意味であると断っている。論理学で言う「自相」の定義については議論すべきことが多いが、少なくともツォンカパは、それを「結果を生み出す能力」と説明していた。とするならば、論理学で言う「自相」と異なる rang gi mtshan nyid とはいかなるものか。また、rang gi mtshan nyid kyis という具格の意味は何か。一方、ツォンカパも後代のゲルク派の学僧も、rang msthan du grub pa という、処格を用いた言い方もしているが、それは同じ意味なのか。こう言った問題に対して、僕自身は一定の解釈を持っている。それが妥当であるかどうかを法王にお聞きしたかったのである。

 僕は次のような三つの質問を用意した。

1. rang gi mtshan nyid というときの mtshan nyid の意味は何でしょうか。私はこれは rgyu mtshan「理由、根拠」の意味ではないかと思いますが、いかがでしょうか。

2. rang gi mtshan nyid kyis の kyis という具格助詞の意味は何でしょうか。具格助詞としては「〜によって」という意味と「〜として」という二つの意味が考えられますが、私はこれを「〜によって la brten nas」という意味ではないかと思います。いかがでしょうか。

3. ツォンカパは時々、rang mtshan du grub pa というように、具格ではなく du という処格助詞を使った表現を用いることがありますが、これは rang gi mtshan nyid kyis grub pa と同じ意味だと考えていいのでしょうか。もしそうならば、du という処格助詞の意味は「〜として」ではなく、「〜において、〜を基盤として」というような意味になると考えられないでしょうか。

 さて、僕の質問は英語だったが、それに対して法王はチベット語でお答えになった。内容上チベット語の方が正確に話せるからである。以下、その内容を聞き取れた範囲で報告しよう。(仏教用語の方ははっきりと聞こえたのでいいが、文末の語尾の方は声が小さくなり聞き取れないことが多かったので、その辺りは不正確である。)

mtshan nyid、rang gi mtshan nyid、rang bzhin、rang gi ngo bo は同じ意味である。だから、rang gi mtshan nyid kyis grub pa は rang gi ngo bos grub pa とも言われる。あるいは、rang gi mtshan nyid kyis grub pa と ngo bo nyid kyis grub pa も同じ意味になる。

量子力学の分野で物質の ngo bo nyid を求めて物質を細かく分解していくと微細な微粒子になり、さらにそれを分解していくと極めて微細な素粒子のようなものになるが、そこにその物質の ngo bo nyid を探しても、どこにも見つけることができない。それゆえ、物質には ngo bo nyid がないということが分かる。

このように対象(yul)は、ngo bo nyid kyis grub pa ではないけれども、しかし存在していない(med pa )のかと言うと、存在していないと言うことはできない。存在しないと言えば、ニヒリズムに陥ってしまう。それならば、ngo bo nyid kyis ma grub pa である対象は、どのようにあるのかと言えば、bsten nas btags pa であると言われる。

仏教では、対象は、yul gyi ngos nas grub pa ではない、つまり rang gi mtshan nyid kyis grub pa ではないけれども、存在しないわけではない。それならばどうかと言えば、brten nas btags pa であると言う。つまり、yul gi ngos nas ma grub であり、brten nas btags tu grub pa であると言われるのである。言い換えれば、対象は brten nas btags tu grub pa であるから、ngo bo nyis kyis grub pa ではなく、rang mtshan gyis grub pa ではないのである。

ブッダパーリタは、「ngo bo nyid kyis grub pa であるならば、brten nas btags pa ではない。」とおっしゃっている。(逆にすれば、brten nas btags pa であるが故に、ngo bo nyid kyis ma grub pa だということであろう。ただし、この通りの言葉はブッダパーリタのテキストには見つからない。)

 僕の質問の意図は必ずしも正確に法王に伝わったわけではなかったし、また法王のお答えは、法王がしばしば話される、全てのものは無自性でありながら、依って施設されただけの存在であるという、言わば、ものごとの正しいあり方を説明することに重点が置かれていたとも言える。僕の質問は、この最初の一つだけで時間をとってしまったので、2番目と3番目の質問はしないことにした。

 また、この、同じような概念が繰り返し述べられているようなお話の中からも、僕のお聞きしたかった内容の大部分を読み取ることができたように思われて、他の質問を取り下げたのでもある。

 以下、法王の言葉を僕なりに解釈し、かつコンテキストを含めて解説してみよう。

  ・rang gi mtshan nyid kyis grub pa
  ・rang bzhin gyis grub pa
  ・rang gi ngo bos grub pa

この三つの表現が同じ意味であることは、ツォンカパ自身が明言している。法王はさらに

  ・ngo bo nyid kyis grub pa

も同じ意味であるとつけ加えられた。ツォンカパは、上の三つと並べてはいないが、この表現も別の箇所で用いているし、内容上も同義であることは明らかである。

 これらの表現に共通なのは、「A-具格助詞 grub pa 」という形であり、これらが同じ意味であると言うことは、このAに当たるものが同じ意味であることを示している。僕のもともとの質問はmtshan nyid だけの意味をお伺いするものであったが、法王はそれはすぐに rang gi mtshan nyid と言い換えられて、それらが rang bzhin や rang gi ngo bo、ngo bo nyid と同じ意味のものだとお答えになっている。

 これらは探し求めても見つからないので、否定されるべきものである。それに対比されるのが brten nas btags pa、あるいは brten nas btags tu grub pa である。この後者の言い方は、目にしたことはないが、A-kyis grub pa と対応させて考えれば納得のいく表現である。

 注意しなければならないのは、ここで否定されたり肯定されたりしているのは、みな述語であるということである。すなわち、これらには常に主語が想定される。法王は、yul、すなわち「対象(古い漢訳では対境)」を主語として言及される。確かに対象に違いはないが、対象一般というわけではなく、むしろ brten nas btags pa の意味を加味して考えて、「名前で区別されているところの各々のもの」と考えた方が分かりやすい。

 要するに、我々にとって名付けられている各々のものが、果たして、rang gi ngo bos grub pa なものなのか、それとも brten nas btags tu grub pa なものなのかが問われているのである。その名付けられものの rang gi ngo bo (= rang gi mtshan nyid, rang bzhin) を探し求めてもどこにも特定できるものが見つからないので、それらは rang gi ngo bos grub pa なものではないことになるのである。

 この rang gi mtshan nyid kyis grub pa あるいは rang gi ngo bos grub pa を、法王は「対象の方から成立している(yul gi ngos nas grub pa)」と言い換えられた。「対象の方(あるいは対象の側)から成立している」とは、brten nas btags tu grub pa と対比して考えれば、要するに、その対象がそれとして成立するための起源が、対象自身の方にあるのか、それとも我々の分別知による施設の働きにあるのかという違いである。

 僕はそういう意味での mtshan nyid を、対象をその対象たらしめている根拠(rgyu mtshan)と考えていたのだが、法王はその「根拠」という言い方に同意はされなかった。「根拠」というよりも、そのものをそのものたらしめている本性・本質のことだとお考えだったのではないかと思う。ただし安易に「本質」と訳して済ませられるものではない。なぜならば、日本語の「本質」の意味自体が曖昧だからである。それは、その対象がそのようなものとして成立するのが対象自身の方でのことなのか、それともわれわれの意識によって名付けられてのことであるかの違いを前提として、前者を「本質」とでも言うしかないということなのである。

 さて、brten nas btags pa「依って施設されたもの」という場合、「何に」依って施設されたのかは明言されていないが、これを、物事は全て原因に依存して存在しているのであって、独立自存の存在ではない、という意味に理解してはならない。rang gi ngo bos grub pa は、他のものに依らずに存在している(成立している)という意味ではない。施設されるのは、そのもの以外の原因に依って成立しているからではないのである。そのものがそのものであることが、様々な因果関係や諸条件の中で、それを把握するものの意識によってそのように考えられ、名付けられているだけのものであるだということである。rang gi ngo bos grub pa なものであっても、他の原因によって生起するものであることには変わりはない。他の原因に依って生起したから施設され名付けられたわけでもない。

 たとえば、この目の前にある机が「机としてあること」が、その机自身の本質によって成立しているというのが rang gi ngo bos grub pa、rang gi mtshan nyid kyis grub pa の意味であるのに対し、様々な因果関係や効用、諸条件、諸状況の中でそれをわれわれが「机」と見なし、また「机」と呼んでいるにすぎない、というのが brten nas btags tu grub pa の意味である。いずれの場合も、その机が、材木やのこぎり、制作者などの諸原因によって生じたもの(すなわち縁起したもの)であることに違いはない。

 これはたとえば ngo bo nyid や rang gi ngo bo を「本質」という日本語に置き換えだだけで理解できることではない。チベット語で議論し、しかもテキストについての読解を前提として初めて分かることである。僕の質問は、このようなオタクな内容だったので(もちろん、ツォンカパの中観思想の根本的な理解に関わることであるので、重要なことであると僕は思うが)、他の方々には(特に通訳を通じてでは)十分に理解されないことであったに違いない。

 もう一つ、別の方の質問に対する法王のお答えの中で、目から鱗が落ちたお話があった。必ずしも質問者の意図に沿ったお答えではなかった(質問者がもっと一般的なことを聞いているのに対し、法王は仏教の理論的な視点からお話をされたので、話題が噛み合っていなかった。)が、その中で法王は、仏教の三つの基本テーマである gzhi、lam、'bras bu「土台、道、結果」に言及された。lamは「修行道」のことであり、その結果('bras bu)は基本的には修行の結果達成される境地、究極的には仏果のことであり、修行をして結果を得るための基礎になる存在論がgzhi「土台」である。この「土台」の説明には、仏教の認識論的、存在論的諸概念が取り上げられるが、そこに必ず二諦(勝義諦と世俗諦)の設定も説明される。僕は単にそういうものだ、と思っていたのだが、法王の説明はそうではなかった。

 「結果」としての仏果とは仏の身体を得ることであり、この仏の身体には法身と色身という二つがある。法身とは悟りの智慧とその対象である空性そのものを指し、色身とは衆生を済度するための色形あるお体である。そのような「結果」を得るための修行道である「道」には、法身を実現するための智慧の修行と、色身を実現するための方便あるいは福徳を貯めていく修行がある。そして、その「土台」すなわち基盤となる物事のあり方は、智慧の対象である「勝義諦」と方便を駆使するための土台になる「世俗諦」という二諦にまとめられる。このように土台、道、結果という三つのテーマは、それぞれ勝義諦→智慧→法身という系列と世俗諦→方便(福徳)→色身という二つの系列からなっている。

 これまで僕は、相互の関連など考えずに、単に土台と道と結果という三つの観点から仏教の理論体系が説明されていると考えていたのであったが、この三つの観点が有機的に関係し、大乗仏教の根本的な二つの系列を述べていることに、初めて気付いたのであった。言われてみればそれは当然な上にも当然のことである。しかし、おそらくそのことに感じ入ったのは、その場にいる人たちの中で僕だけだったのではないかと思う(そんなことは言われるまでも知っている、という人もいたかもしれないが)。

 釈尊は、同じ一つの言語で説法されるが、それは聞く人によって別の言葉で聞こえると言う。今回の法王のお話も、そんな趣があったのかもしれない。
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アジャ・リンポチェ 大谷大学真宗総合研究所公開講演会 [チベット]

大谷大学真宗総合研究所では、現在、来日されているアジャ・リンポチェをお招
きし、6月18日(火)に公開講演会を開催いたします。

アキャ・リンポチェの転生系譜はツォンカパの父に始まり、ダライラマ5世のと
きに化身ラマ(転生僧)の認定を受け、現在のリンポチェはその第8世にあたり
ます。前々代の第6世アキャ・リンポチェは1901年に寺本婉雅の尽力によって、
日本初のチベット人高僧として来日し、東本願寺の後援のもと京都大学、東京大
学などで講演をしました。

アキャ・リンポチェは代々、青海のツォンカパの生地に建つ名刹クンブム寺の僧
院長を務めてきました。現第8世は、その任にあった1998年にアメリカへ亡命
し、現在はカリフォルニアのチベット・モンゴル仏教文化センターにおいて後進
の指導と世界各国への講演、モンゴルでの慈善活動などに従事されております。

アキャ・リンポチェは特に青海やモンゴルに大きな影響力のある化身ラマであ
り、蔵蒙漢の関係史に深く関わってきました。そこでこの機会に、下記のような
日程でリンポチェを招聘して公開講演会を開催し、アキャ・リンポチェの転生相
続の系譜についてお話を伺います。

公開講演会ですので、参加資格は特にありません。お近くの方は、お誘い合わせ
の上、おいで頂ければと思います。

日時:6月18日(火)16:20〜18:20
場所:大谷大学響流館3階 メディアホール(京都市営地下鉄烏丸線 北大路駅
下車1分)
演題: 「歴代アジャ・リンポチェの事績について」
会費:無料

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僕のただ一人の先生─ゲシェ・テンパゲルツェン─ [チベット]

 最近は聞かれることもなくなったが、以前はよく、先生は誰かと聞かれたものだ。もちろん学生であれば多くの先生の授業をとっているはずであるが、その質問の意図は、誰に付いて専門の勉強をしたのか、という意味である。学界では、どの先生に習ったかで、その人の学問の姿勢・内容がある程度決まってくるのである。そう聞かれたとき、僕は、チベットのゲシェ・テンパゲルツェン師だけがただ一人の先生だと答えてきた。指導教員という意味では、他にもお世話になった先生はいるが、僕が専門としているチベット仏教について教えを受けた先生は、ゲシェラ以外にはいないのである。

 そのゲシェラが8月12日に南インドのデプン寺近くのご自宅で逝去された。トゥクダムの期間(徐々に心が肉体を離れていく過程)も終わり、昨日荼毘に付されたと文殊師利大乗仏教会の野村君から連絡があった。ゲシェラを多くの日本人に紹介したのは、彼の功績である。ゲシェラが東洋文庫にいる頃には、ごく一部の研究者しかゲシェラを知らなかった。東洋文庫のチベット研究室でゲシェラのお世話をしていた僕には、当時のゲシェラの様子を書き留めておく責任がある。とはいえ、記憶は混乱し、時間的な順序(これはこちらを参照)を再現することはできないが、僕にとってゲシェラが唯一無二の先生であったことを、感謝の気持ちを込めて記しておきたい。

 ゲシェラは、大学院生の僕が東洋文庫にアルバイトに行ったときに、すでに最初の5年ほどの東洋文庫滞在を終えて、ゴマン学堂の僧院長に就任するために離日する直前であった。その後3年度ほどして、僧院長を辞められ、再度来日されて東洋文庫にいらっしゃったときから、親しく教えをお聞きすることができるようになった。ゲシェラは日本語もある程度おできになっていたので、研究室では、文語チベット語混じりの日本語でコミュニケーションをとっていた。

 僕はチベット研究室の専任研究員として、ゲシェラの招聘の手続きや外国人登録、下宿探しや納税の手続き、入管での滞在許可の更新、インド大使館での身分証明書の延長手続きなどのお手伝いはしたが、すでに日本生活に慣れていたゲシェラは、日常生活のほとんどを一人でされていた。後のゲシェラを知る人たちからしたら、信じられないような生活だった。北区西ヶ原にあった東京外大の近くの4畳半の古い木造アパートに住まわれ、毎日、東洋文庫まで30分ほどかけて歩いて通われた。後年の龍蔵院にいらっしゃる頃と違って、ゲシェラはこのとき、ずっと一人で暮らしておられたのである。

 東洋文庫では、僕が1時間程度テキストの解釈について質問をする以外は、黙々とテキストの作成や校正、目次作りをされていた。当時は、日本の仏教学におけるチベット仏教の知識は非常に限られたものであった。僕もチベット仏教を学ぶ機会はなく、ただ、インド仏教学の延長として、チベットの学僧の書いた文献(チベット撰述文献と呼ばれていた)を、分かるところだけ拾い読みしている程度であった。そもそも、チベット仏教の研究というものをどのようにしたらよいかの手本さえもなかった。ゲシェラに何を教えてもらえばいいかも全くの手探りで、チベット風にテキストの伝授を受けるなどということは、想像だにできなかった。僕は自分で読んでいるテキストの分からないところをゲシェラに質問して、ゲシェラはその質問に答えて説明をしてくれる、という具合であった。当時の僕は、論理学を専門としていたから、いきおい質問する内容も仏教論理学のテキストの解釈ということになったが、それも系統だって聞いていたわけではなかった。

 しかし、それだけだったら、ゲシェラが僕のただ一人の先生であったとは言えないだろう。インドの文献を継承するような注釈書や概説書は、インド仏教と同じように読んでいっても、徐々に理解できるようになる。しかし、まったく歯の立たない文献があった。『ドゥラ』と呼ばれる論理学の初等教科書である。何も難しい言葉が使われているわけではないが、ただ、字面を追っているだけでは論理の展開の意味が理解できなかった。また辞書に出てこない独特の表現が要処要処に用いられていた。注釈書などは、説明として書かれた文献であるが、『ドゥラ』は先生が説明するための実例集なので、口頭での説明がないと意味が理解できなかったのである。

 少しずつチベット仏教の文献に親しみ、チベット仏教に関する知識が増えてくると、この『ドゥラ』が若い出家者が最初に徹底して身に付けなければならない技術と知識であることが分かってきた。さらに、それ以外の文献の中にも、この『ドゥラ』で使われた概念や論理が前提となっていることも分かってきた。

 それを僕は毎日ゲシェラに少しずつ教えてもらった。使ったのは、ジャムヤンシェーパの弟子のセ・ガワンタシという方の書いた『セ・ドゥラ』というテキストであった。といっても伝統的な教授法ではなく、あくまで分からない箇所の意味をお聞きするということだった。二人はまず一文くらいずつ声をそろえて読み、その内容について、僕がこういうことでしょうか、この意味はわかりません、などと質問する。それに対してゲシェラが説明をしてくれるというやり方だった。

 実際には、テキストの後の方があまりにも難しくて最後まで読み通すことはできなかったが、それでも、他の文献にも利用されるチベット論理学固有の表現形式や議論の運び方については、ほぼカバーできる程度の勉強はできた。

 『ドゥラ』に用いられるような技法は、さまざまなチベット仏教文献に利用されている。後代の文献になればなるほど、あるいは教科書のような著作になればなるほど、その割合は増える。たまたま手に取ったインド仏教の延長のような註釈書だけではなく、チベット仏教固有の議論を理解していくためには、これらの知識は必須であるが、それはテキストを読んだり辞書を調べたりしても、決して学ぶことのできないものである。まさに「口伝」が必要になる。僕はそれをゲシェラに教えて頂くことで、チベット人の書いたものを読み解くために欠くことのできない知識を手に入れられたのである。

 東洋文庫に勤め始めた30年近く前から、大学院生の希望者にチベット語文献の講読をしてきたが、数年に一度、熱心な学生がいるときに『ドゥラ』を教えた。ゲシェラの教えて頂いたことを自分なりに消化しアレンジし、日本語の訳し方と説明の仕方も工夫を重ねてきた。『ドゥラ』を教えた学生(早稲田大学の大学院生だった龍蔵院の野村君もその一人である。)は今でも何らかの形でチベット仏教と関わりを持っている。よくよく考えてみれば、僕の手解きした学生の中でチベット仏教を研究するようになったのは、それらドゥラを教えた学生ばかりである。やはり『ドゥラ』はチベット仏教の最初の入り口に違いないのである。

 僕の伝えたかったことが全部伝わっているかどうかは分からないし、またゲシェラが教えて下さったことを僕が誤解したり、聞き漏らしている部分もあるかもしれない。しかし、ゲシェラに教えていただいたこと、ゲシェラに教えて頂かなければ決して分からなかったことを、日本の中で伝えられたことで、ほんの小さい範囲ではあるが、伝統を受け継ぎ、それを次の世代に伝えられたという秘かな満足感を感じてはいる。

 僕が教えて頂いていた頃のゲシェラは、今の僕と同じくらいの歳であった。まだ疲れも知らずに、僕の質問に、いつでも「どうぞ、どうぞ」と言って快く答えて下さった。むしろ、僕の方がお聞きするのに疲れてしまって、「もう少し自分で考えてみます」と言って引き下がるほどであった。その頃に、今の僕ほどのチベット仏教の知識と理解があれば、もっと多くのことをお聞きすることが出来ただろうと残念に思いもするが、しかし、時間を逆に戻せない以上、それが僕の、そしてその時代の限界であったと思い直してみる。

 ゲシェラが逝去され、かつての東洋文庫でゲシェラに習っていた頃を思いだし、最近ゲシェラを知るようになった人には思いもつかない質素で、孤独な東洋文庫でのゲシェラの姿を、そっとここに書き記しておく。僕にとってただ一人先生と呼べる方であったテンパゲルツェン先生のご冥福を祈りたい。
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チベット仏教研究のススメ公開 [チベット]

 2012年2月17日、駒澤大学大学院仏教学研究会の公開講演会で「チベット仏教研究のススメ」という、やや軽薄なタイトルで講演をしたことは、既に記した通りである。

 それを研究会の大学院生が文字に起こしてくれ、それに多少手を加えたものが、このほど『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第45号に掲載された。話した内容を文字にしたのはこれが初めてだったが、しかし、文字にしてみると、文法は乱れ、話は脱線し、前後照応せず、ところによっては意味不明な表現になったりと、口頭だから勢いで分かってしまうよ、と言うわけにもいかない代物だった。

 3校くらいまで大幅に赤字を入れることになり、編集の大学院生たちには申し訳ないことをした。それも、あまり直してしまうと、講演を記録したものにならないので、ある程度は、その場の乗りで話したことと諦め、何だか曖昧な部分も残されている。

 しかも、タイトルが軽薄であるのに、内容はチベット語文献を読んだことのあるのを前提とするようなオタクな話であった。これもまた、会員諸氏には申し訳ないことをしたと思う。

 ただ、チベット仏教研究がインド仏教研究にこのように貢献できます、という点は、ある程度伝わったらしいことを、後で駒澤の先生から伺った。

 せっかく、チベット仏教研究を勧める内容なので、より多くの方に読んでほしいと思い、これもまた無断で公開する。問題がありましたから、ご一報下さい。>関係者各位
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チベット文献資料の歴史 [チベット]

 昨年度末に、大谷大学の図書館の情報誌『書香』29号に、大学所蔵のチベット語文献PDFについて短い紹介記事を書いた。

 チベット語を読める人のために書いたものではあるが、読めなくてもチベット仏教に関心のある方にも、アメリカのチベット学者たちが、チベット語文献の普及にどのような貢献をしてきたか、その情熱の一端に触れられるのではないかと思う。

 これも公開していいかどうかは分からないが、公開したとしても、あまりアクセスする人はいないであろうから、秘かにPDFを公開しておく。Dropboxの共有リンクなので、少々重いとは思うが、関心のある方をダウンロードして読んでみてほしい。
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チベット仏教研究のススメ [チベット]

 先日(2012/2/17)、駒澤大学大学院仏教学研究会の公開講演会で「チベット仏教研究のススメ」というタイトルの講演をしてきた。

 例年の公開講演の演題を見ると、学術発表の趣を呈していたが、ここはひとつ、チベット仏教を研究する人、研究してみようと思う学生を少しでも開拓したいと考えて、チベット仏教を研究すると、こんなにいいことがあるんですよ、という宣伝目的の講演を目論んだのである。

 実際、チベット仏教というのは、特殊な仏教ではなく、インド仏教が衰退し、滅んでいくときに、その灯火をチベットに移し変えて発展した、後期以降のインド仏教にほかならないのである。ただし、チベット人とインド人では、国民性というか、民族性が違うので、仏教や、仏教文献に対する態度に違いが出てきて、非常に論理的で整合性のある体系を目指すチベット人は、インドの典籍の総体を受け入れつつ、その間にある様々な矛盾や対立を、再解釈し、矛盾のない体系に組み立てなおしたのである。

 チベット人の膨大な著作は、そのようなインド仏教の原典に対するテキスト研究、思想研究の成果の蓄積なのである。

 そこでそのようなチベット仏教を研究することで、近代の仏教学をはるかに超える理解あるいは解釈体系を手にすることができる。それを武器にインド仏教の原典を研究すれば、今まで思いもしなかったような高度なレベルでの研究ができるであろう。

 しかも、目の前にはチベット人たちの著作が山のように刊行され、TBRCのお陰で、そのほとんど全てをすぐに手にすることが出来る。さらに研究者の数がすくないので、やり残されているテーマを探すなんてことをしなくても、犬もあるけば棒に当たる式に、いくらでもザックザクと研究テーマが出てくる。

 とこのように、おいしい話をしようと思ったのであった。そしてプレゼンもその線で書いていった。

 そこでただ抽象的な話ではなく、実例も交えてさらにチベット仏教研究の面白さを伝えようと思って資料を揃え始めたら、これがやはり面白くて、いろいろな実例からなる資料を作ってしまった。ところが、よく考えてみたら、駒大の仏教学研究会は何もインドやチベット仏教の研究者ばかりではなく、いやそれ以上に、中国仏教、日本仏教、さらには禅宗の研究者が多いことに気付いた。かれらはチベット語を知らない。そこでチベット語に即した難しいけれども、おもしろい実例を挙げても、そのおもしろさは伝わらないであろう、ということで、全部に和訳をつけていった。

 しかし、そもそも難解なチベット語をこんなふうに解釈し読めますよ、おもしろうでしょう、というような例ばかりだったので、要するにチベット語を知らないとそのおもしろさが伝わらないどころか、そもそも何をしているのかさえ伝わらないことになってしまう。

 結局、実際の講演では、時間も足りなかったこともあり、そのような「おもしろい」例はほとんどスルーして概要を説明するしかなかったのである。

 そのお陰で、二つくらい論文のかけそうなテーマが見つかった。(チベット仏教の研究では簡単にテーマが見つかるのである。)それは後ほど、あるいは近いうちに論文に書くことにしたい。

 この講演の内容は、録音から文字に起こして、5月に刊行される予定の『駒澤大学大学院仏教学会年報』に掲載されることになっている。去年の年報の目次を見ると、

第43号 2010年(平成22年)5月発行
巻頭言 松本史朗
中世初期の入宋僧 ―覚阿・栄西・能忍・俊芿・道元と宋代禅宗―  佐藤秀孝
明治・大正期における曹洞宗の葬儀・追善供養法
―行持軌範・洞上行持四分要録・洞上行持諷経錦嚢を資料として― 徳野崇行
如浄禅師における教学的様相 ―『宝慶記』を中心として― 清野宏道
道元禅師における多子塔前付法と霊山付法 西澤まゆみ
洞門説話の展開と意義 ―伊勢浄眼寺所蔵 『神明三物記』を中心として― 龍谷孝道
『宝慶記』における身心脱落の意義 永井賢隆
永光寺・大乘寺における国王即位法関係切紙 ―久外呑良・卍山道白を中心に― 廣瀬良文
『摩訶止観』病患境の研究  渡邊幸江
謎の禅者、今井福山について 小栗隆博
『摩訶止観』病患境の研究 ―中国医学から読み解く「腰三孔」― 渡邊幸江
『長部』の整理について ―『長部註』『長部復註』を中心として 越後屋正行
パーリ聖典における中道の研究 ―ウパディ(生存素因 upadhi)に基づいて― 孫思凡
『マッジマニカーヤ』における信について ―saddhāの語を中心として― 清水谷善曉

こんな感じである。やはり少し場違いだろうか。

 とりあえず、ここにプレゼンの内容を少し手直ししてPDFにしたものと、当日配布した資料のPDFをリンクしておこう。これだけではいずれも正確には内容を知りえないのであるが、もし興味のある方がいらっしゃったら、ちょっとだけでも目を通していただければと思う。

 いずれにせよ、講演会のあとの懇親会では、中観を研究している何人かの学生と話ができ、少しはチベット仏教研究へのススメになったのではないかと、ちょっと期待はしている。
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くそ勉強について、あるいは君は関口存男を知っているか [チベット]

 関口存男という人を知っているだろうか。たぶん、今の若い人は全く知らないだろうし、僕と同年輩であっても知っている人は少ないだろう。昭和の初期から戦後にかけて、ドイツ語の教科書や参考書、講座物をたくさん出版し、今は廃刊してしまった『基礎ドイツ語』という雑誌を出し、一時期の日本のドイツ語教育界をリードした人だった。彼は、死ぬまで『冠詞』という3000ページを超す研究書を執筆していた。その学問はあまりに孤高で、それを継ぐ人はいなかったが、ドイツ語教育法については、しばらくの間(たぶん、1990年代半ばくらいまでは)信奉者が大勢いた。

 その関口存男(「つぎお」と読む)が最初にドイツ語を勉強したときの話が、非常に印象的だった。うろ覚えで創作が入っているかもしれないが、次のような話だった。彼は、たぶん中学生くらいに当たるのだろう、陸軍幼年学校でドイツを学び始めた。文字と発音を学んで辞書が読めるようになったので、心斎橋の洋書店(丸善だったかもしれない)に行って、懐具合の関係でレクラム文庫のところに行った。まだ単語は覚えていないから何が書いてあるかは分からないので、とにかく一番分厚い本を買った。分厚い本を読めばドイツ語ができるようになると思っていたそうだ。それが後でわかったのだが、『罪と罰』の独訳本だった。それを寮で読み始めたが、もちろん皆目分からない。ときどき、知っている単語に出会うが後は分からないから辞書を引くが、それでも理解出来ない。理解出来ないものを数ページ読む人はいるが、たいていはそこで止めてしまう。ところが彼は100ページ、200ページととにかく何度も何度も読み直し、意味が分からないままに暗記するほど繰り返し見つめながら読み進んでいった。そうしているうちに、個々の部分の意味は分からないのに、話の筋が分かるようになってきた。小説が予想通りに進んでいくようになった。そこである日、最初のページを読みなおしてみたら、どういうわけか、ピタっと書いてあることが分かるようになっていた。そのときには、ある一つの語を見ると、それの文例がいくつも頭の中に浮かんでくるまでになっていた。頭の中はドイツ語のスピーカが常時鳴っているような状態になっていた。その後は、雪だるま式に理解できる箇所が増えていき、ついに『罪と罰』を読み切ることがてきた。

 彼は、その後もラテン語やギリシャ語、フランス語などを同じようにして見につけていった。ラテン語だったかフランス語だったかは、勉強を初めて一年後にアテネ・フランセで教えるまでになっていたという。

 こういう勉強の仕方をかれは「くそ勉強」と名付けた。その「くそ勉強について」という文章が今はもう手に入らない『関口存男の生涯と業績』という本に転載されていた。僕も持っているはずの本だが、どこかに行ってしまってすぐに見つからない。ネットで探したら、その最初の方だけ入力してくれている人がいた。以下に、ちょっとだけ引用する。

「くそ勉強について」関口存男

 ただモウとにかく机にかじりついて、遮二無二、馬車馬のように、人に笑われようが、頭の好い人たちにどう批評されようが、そんな事には一切お構いなく、めくら滅法に、とにかく勉強勉強また勉強、「あの男少し頭がどうかしてやしないか」と云われるほど勉強に凝ってしまって、友達には少々敬遠され、親兄弟にはトックの昔に見離され、学校の先生には苦笑とも微笑ともつかぬ或る種の非常に特殊な表情を以って注目され、役人とか、警官とか、新聞記者とか、犬とか、自動車とか云うような現実界の不可抗力からは、時々剣つくを喰ったり、どなられたり、尋問されたり、吠えつかれたり、突きとばされたりしながら、それでも感心に乗るべき電車にはチャンと乗って、家から学校へ、学校から家へと、マア大体無事にたどり着き、たとえば決して列車のホームを間違えたために月世界や火星まで行ってしまっって、着いてからはじめて気がついた……なんて失敗はしたことがないと云う……(これが実に大変な努力なんで、あらゆる夢遊病的行住坐臥にもかかわらず、こういう些細なところにも如何に懸命の努力が払われているかという所にも注目して頂かないと、私が今から紹介しようとする或る種の特種な市民タイプは、神にも仏にも見離された上、おまけに同胞人類にまでのけ者にされる危険があるのです!)

 エート、文章が暴走しちゃって、どういう副文章で書き起したのか思い出せなくなっちゃったが、とにかくマア、そういう型の人間があるということを云おうとしたのです。称してクソ勉強と云います。

このくだりが非常に印象に残っていた。文章の後半の方でだったか、別の文章であったか、勉強というものは、明日試験だという前の晩の一夜漬けを、一日だけではなく、毎日そのような意気込みで勉強しなくてはならない、とも書いてあった。

僕がそんな勉強をしてきたというわけではないが、いつもこの「くそ勉強」のことは頭の片隅にあった。若い時にしかできないがむしゃらな勉強というものがある。読むものが何でも頭に入る、毎日、おしりが硬くなるくらい机の前に座って、テキストを手で書き写し、辞書を引き、何度も何度も読み、コメントを付け、訳をし、さらに読み直して訳し直す。その時期に僕の近眼も進んで眼鏡をかけるようになった。若い時のその理解と記憶は、今になってもまだ(細かいことは大分忘れているが)しっかりと残っている。その後にやった研究などは忘れてしまっていても。

大学院の頃は、そもそも授業なんて半分くらいしか出席しなかったし、年に一度か二度担当のところを訳せばいいだけだった。授業よりも先輩についての読書会の方が勉強になったが、それもあくまで周辺分野の話だった。自分が専門にしている分野は自分一人で読み、考え、学び、書いてきた。修士論文が仕上がったときには、その分野では指導教官の先生よりもよく知り理解していた。もちろん、訳の部分や構成の部分などの不手際はあったし、分かりやすい書き方ができていたわけでもないが、本質に関しては揺るがなかった。

それは決して特殊なことではなかったと思うし、僕などは決して勤勉な勉強家ではなかったと思う。関口存男の足元にも及ばない。しかし、それに引き換え、最近の若い人はどうであろうか。若い人などと言えるような立場にあるわけではないが、勉強する覚悟が感じられないのだ。自分の身の丈に合わせて、まあ、できることをできる限りやって、ダメだったらそれはそれでいい、というような物分りのいい研究者(の卵)が増えているような気がしてならない。

みんなで分担して自分はここをやります、と言った住み分けをしたりもしている。だが、それでそのものの本質を理解できるだろうか。本質は分担して一部を理解することでは決して辿りつけない。自分の頭で読み、考えて初めて本質に近づくことができる。もちろんその本質と思ったものが誤解だったということもあるかもしれないが、いずれにせよ、一部を分担して後は人任せでは、そんなところにさえ行着きはしない。

僕の思い出を下手な文章で綴っても迫力がでないので、最後にもう一つ、関口存男の「語学をやる覚悟」という文章を載せておくことにしよう。これも上記の『生涯と業績』に載っていたが、ネット上にあったものを、少し字句を改めて転載する。この「かかァの横っ面を張り飛ばす」覚悟、というのが、印象に残っている文章だった。

「語学をやる覚悟」関口存男

△本当に語学を物にしようと思ったら、ある種の悲壮な決心を固めなくっちゃあ到底駄目ですね。まず友達と絶交する、その次にはかかァの横っ面を張り飛ばす、その次には書斎の扉に鍵を掛ける。書斎の無い人は、心の扉に鍵を掛ける。その方が徹底します。

△意地が汚くなくっては駄目です。欲張っていなければ駄目です。うんと功利的出なければ。ユダヤ人が金をためるように。なるべく執念深く、しつこく、うるさく、汚く、諦め悪く、非常識に、きちがいじみて、滅茶苦茶に、がつがつと、居候が飯を食うように──兎に角しつこく、しつこく、しつこく。

△あっさりした気持ちを持った亡国的日本人なら其の辺にいくらだって転がっています。しかしそんなのは何人いたって仕様がない。ちっと『しつこい』のがいなければ。梃子でも動かないのが。諦めの悪いのが。往生際の悪いのが。がつがつした下品なのが。

△こういう事をいうと、頭っから反感を持つ人があるかも知れません。よろしい、反感をお持ちなさい、但し学問はおやめなさい。殊に語学は。(語学だけではないでしょう?)

△たとえば、こどもが御飯をたべるのを見ていて御覧なさい。傾向が二つあります。ある種の子供は、好きなおかずだけ先に食べてしまって、あとをお茶漬けにして、いい加減にすましてしまいます。ところが、十人に一人位は、すきなおかずだけそっと横へ取っておいて、まず不味い方のおかずから食べ始めるのがある。──こういう風なのは、それを側で見ていると、心根が陋劣で、乞食のようで、とても正視できない。ところが、こういう風なのが尊いのです。学者になるメンタルテストだったら、私は此の方を採用したいと思いますね。学者ばかりとは限りません。

△意地は汚いほど宜しい、諦めは悪いほど結構、凝り性で,業欲で、因業で、頑瞑で、意地っ張りで、人に負けるのが大嫌いで、野心家で、下品で、つきあい憎くて、可愛げが無くて、『こんな奴と同居したらさぞ面白くなかろう』といったような性格……私はそんなのを尊びます。こういう一面を持とうと欲しない人は、本当に勉強はよしたが好い。殊に語学は。殊にドイツ語は。

△勿論人に好かれない事は覚悟の前でなければなりませんよ。人に好かれてどうなるものですか。人にだけは好かれない方がよろしい。そんな了見だけは決して起こす可らずです。余計なことですからね。『人に好かれる』なんて、人に好かれるような暇があったら、その暇にしなければならない事はいくらでもあります。

△今日の社会は(今日の社会に限りませんが)決して価値ある個人を欲してはいません。だから、社会の欲する無価値な人間になるか、社会の欲せざる価値ある人間になるか、問題は此処です。

△世間はどんな人間を好むか?『つきあい好い』人間を好みます。つまり、一緒にお茶でも飲めるような人間をですね。一緒にお茶が飲めなくちゃ仕様がありませんからねえ!

△ところでさて、世間様とご一緒にお茶を飲むためには、やはり、世間様とご一緒にお茶を飲むような人間である事が必要です。そうでない人間は何処かこう煙たくて、しんみりしませんからねえ。頭の中にお茶話以上の考えを持っている人間なんてのは、どう見ても人に好かれる方の型ではありません。努力しつつある人間なんてのは、まったく興ざめですからね。座が白けますからね。

△世間はそんなものです。そういう世間の真っ只中にあって、殊にドイツ語でも一つ叩き上げようという時には、実際一つの悲壮なる決心が必要です。

△ドイツ語も、今日では、もはや数年前のある種の過渡期を通過して、今はもう殆ど英語と同じほど一般的になってきました。ちょっと噛ったからといって、それでもう一かどドイツ語を心得たような顔のできる時代は、もうちょっと過ぎ去ったといっても好いのではありますまいか。

△『俺は勿論語学者なんぞに成ろうとは夢にも思わない、俺にはもっと高尚な対象がある、その単なる手段として語学をやるのだ』──そんなやり方では到底駄目です。

△要するに、そんな言い草は通用しません。『ちょっとやって見る』とか、『手段としてやる』なんてやり方はありません。『やる』以上は『やる』。やるに二つはありません。

△およそ時間の上から考えても、エネルギーの損失の上から考えても、また自己教養の立場から考えても、そう大して深入りするつもりでも無い物を、ちょっとした興味でやって見るほど馬鹿馬鹿しい努力はありません。ちょっとやって見るための対象としては、ドイツ語なぞは恐らく最も不適当なものでしょう。

△乃木将軍の失敗談をご存知ですか?彼は旅順を強襲によって一息に乗っ取ろうとして失敗しました。沢山の人命を犠牲にしたのち、やっと『打算と忍耐と根本的な態度』とによって、じりじりと迫らなければ駄目だという所に気がついたのでした。

△ドイツ語は持久戦です。まず腰をおろして考えましょう。中腰の考えと、あぐらを組んだ上の考えとでは、考えがおのずから違って来ます。坑道を掘って敵塞の『下』に迫りましょう。大岩層に逢着したら、コツコツと、一片また一片と岩を崩して行きましょう。相手は岩ですよ。敵ではありません。敵だの勝利だのといったような事はもはや当分の間問題ではありません。それはもはや戦争ですらもありません。仕事です。涯しなき労作です。無限の穿掘です。試練です。凝視です。根くらべです。

△目標は無限の彼方にあります。そして鼻の先は岩です。そして岩の背後は岩です。そのまた背後も岩です。岩、岩、岩、岩、当分は岩です。

△掘りましょう!

(昭和六年六月「独逸語大講座」(全六巻)の第二巻附録)

今はもう関口存男の本はほとんど手に入らなくなったが、最近、池内紀の『ことばの哲学─関口存男のこと』という評伝が出版された。関口存男のドイツ語学を言語哲学と捉え、さらにそれをウィトゲンシュタイン(ほぼ同時代人だった)と比較しつつ書いている。今なら本屋に行けは必ず置いてあるので、興味のある人は手にとって見てほしい。
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チベット語の憂鬱 [チベット]

 単に僕の授業だけかもしれないが、チベット語の入門にしても講読にしても、参加者はとても少ない。少ない人数を前にして一生懸命説明をしていて、ふと我に帰ったとき、自分のしていることは間違っているのではないだろうかという疑問が頭を過る。

 今、授業としてやっているのは、大谷大学でチベット語の文語文法入門の授業を通年で一つ、その受講生は4名。東大でチベット語文献講読の授業を前期半年で、その受講生も4名。大谷大学で講読会として私的にずっと開いているものも4名。あとは東大で後期に文語文法入門を開講する。これは何人かはもちろん分からない。昨年度は最後まで出たのは2、3名だったような気がする。

 かれこれ、25年くらいは、講読会をずっと開いてきた。そのほとんどは授業ではなく、私的な講読会であった。そういう場合の常として、参加者の共同研究の場のようなものが多いのだが、僕の場合は、ほとんどが参加者にチベット語の読み方を教えるという教育的なものであった。輪読形式で読んでもらって、その問題点を材料にそのチベット語の読み方を、文法や文脈の説明を交えて解説する、という形式のものである。

 さすがに入門のための私的な授業はしたことはなく、大学でそのような機会を持つようになったのは、最近のことである。何度か試行錯誤して、今は、John Rockwell, Jr. という人の A Primer for Classical Literary Tibetan という、1991年の英語の文語入門書を、例文や問題文は大部分拝借しながら、説明はほとんど全部僕が書きなおしたテキストを使っている。例文を借用して、構成も似ているので、このままでは出版はできそうにないが。

 この本の特徴は、例文が完全に仏教的なものであることに尽きる。その意味では、例文や問題文を読んでいるだけでも楽しいし、仏教の基本的な術語が網羅されているので、仏教文献を読むことだけに特化した入門書としても、よく出来ていると思う。

 しかし、それを使って学生に説明していると、はたしてこれで出来るようになるだろうかと疑問に思ってしまう。出てくるのは、ほんとに基本的な用語を使った基本的な文だが、次から次へとそういう文が並んでいると、そもそもチベット語の入門の敷居の高さに加えて仏教に入門することの困難さも上乗せられて、はたしてこれを消化できるだろうかと、不安になってしまうのである。

 目指しているのは、自分でチベット語仏教文献が読めるようになる能力を育成することにある。だが、はたらしてその必要のある人がどれだけいるだろうか。チベット仏教の研究者自体が数が少ない。僕はその数を増やしたいと思ってはいるが、しかし、実際にほとんど増えてはいない。だから初歩を教え、中級、上級のテキストの読み方を教えている。もう何年も。でもやはり増えてはいない。

 講読の授業でも講読会でも、その文法入門の内容を前提に、その文法的な説明を加え、そして文法では解決できないことは、文脈を説明し、どうしてそう訳さなければならないか、どうしてそういう解釈になるかを分析してみせる。同じように読むことができるようになれば、少なくとも僕と同じくらいには読めるようになり、そしてそのために僕が使ってきた膨大な時間を使わないで、そうなれるはずである。その先に行く時間も生まれるであろうと期待する。

 しかし、ここでも僕の説明はどの程度、「読解力」として参加者に身についているか、分からない。説明を聞いても、それが、次に自分で読むための能力として定着していくかとなると、やはりそこには大きなギャップがある。

 チベット語を勉強したいという人はある程度いるかもしれない。しかし、その人は一体何を読もうとしているのだろうか。チベット語の文法と辞書の引き方を覚えただけではチベット人の書いたものを読むことはできないし、また大蔵経のような翻訳物も正確に読むことは難しい。そしてその難しさを乗り越える必要性が、一体どれだけの人にあるであろうか。

 とても否定的な気持ちになる。果たしてそれは僕が労力をかけているほどに効果のあるものなのだろうか。意味の有ることなのだろうか。その自問は、たぶんもう教えることは止めたという気持ちになるまで続くことであろう。
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iPhoneとiPadでチベット文字を使おう [チベット]

 毎年、同じ光景で同じ写真になってしまうが、今年の11月26日の銀杏はこんな感じだった。まだ少し緑を残し、石畳も枯れ葉に埋もれていない。来週が見頃だろうか。

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 さて、iPhoneやiPadのiOSが先週(11月23日)4.2.1にバージョンアップした。ちょうど北朝鮮の延坪島砲撃の日だったので(かどうかは分からないが)、新聞でのニュースにはならなかった。iPhoneのiOSは既に4.1になっていたので、マイナーバージョンアップという位置づけだが、われわれチベットをやっている者にとっては、大きな意味のあるバージョンアップであった。つまり、この4.2からチベット文字の入力・表示ができるようになったのである。

 チベット語を使うのにチベット文字を使う必然性はない。しかし、実際にチベット文字を使い始めたら、ローマ字で転写したチベット語には戻りたくなくなる。今だって、ローマ字転写されたチベット文を読むことはあるし、できないわけではない。でも、やはりチベット文字の方がずっと読みやすい。

 そうだとしても、iPhoneやiPadでチベット文字は使わなくてもいいだろう、と言えないこともない。もちろん、チベット人ならばチベット文字を使いたいはずだ。しかし、外国人であるわれわれは、チベット文字を使わなくたって構わないではないか。そういう声もあるのを知っている。そういう人を説得しようとは思わないし、さらに、チベット語を使わない人にとってはどうでもいいことだということも分かる。

 それでも、実際にiPhoneやiPadでチベット文字を入力したり、表示したりできるようになったら、いろいろと「便利なこと」(つまりなくても困らないが、あったら便利だ、ということ)が出てくるのである(後で、現在の目玉アプリをご紹介するつもりだ)。アップルがiOSでチベット文字をサポートしてくれたことを感謝したい。

 とは言え、これを実現できたのは、Mac OS、それからMac OSXとチベット文字をサポートするシステムを開発してきたTibetan Lanuage Kit Project(TLKプロジェクト)の活動があったからである。このプロジェクトはご存じだろうか。Mac OSXに搭載されているチベット文字のシステム(基本的にはフォントとキーボード)は、このTLKプロジェクトが開発し、アップルに寄贈したものである。そしてこのプロジェクトは、日本で進められてきたものである。その前史は措くとして、大谷大学の真宗総合研究所にあるチベット研究班のプロジェクトとして、大谷大学を通じてアップルに寄贈されたのである。だから、キーボードに「Tibetan - Otani」という名称が付いているのである。

 今回のiOSのチベット文字サポートも、基本的にはその延長線上にTLKプロジェクトの一環として開発が進められてきた。特にプロジェクトの中心メンバーである野村正次郎さんの努力が実ったものである。このフォントはKailasaは、もともと僕が随分前にデザインし名付けたものを基礎にして、改良が加えられて完成したものである。僕もMac上のチベット文字処理に関しては、もう20年近く関わっている。前回の「インド論理学研究会」が30年前であるから、もう一つの節目なのかもしれない。

 アップルはiOSのバージョンアップのときに、チベット文字の話は全くしていないが、バージョンアップの直後から様々な情報がツイッター上で流れ始めた。しかし、その開発が日本人のプロジェクトの、特に野村さんが中心になって開発し実現できたことを知っている人は少ない。

 まずは、たまたま気付いたブログの言葉を紹介しよう。

There has been a lot of excitement this week about the robust support for the Tibetan written language in Apple’s iOS 4.2 for iPhone and iPad. This is a fantastic achievement that many contributed to, and that Apple should be loudly applauded for.
From: Nathan and his Open Ideals (http://openideals.org/) / Nov. 26 2010
「今週は、極めてエキサイティングなことがあった。iPhoneとiPadのiOS 4.2(アップル社)でチベット文字がきちんとサポートされるようになったのである。これは多くの人が貢献して実現した素晴らしいことであり、アップルは大きな声で賞讃されてしかるべきである。」(「ネイサンとオープン・アイデアルズ」より)

 ツイッター上の書き込みについては、ここに「まとめリスト」を作っておいた。全部をフォローできていないかもしれないし、またリツイートだけのものは省略している。

 自分の見慣れた文字がiPhoneやiPadで表示されるのを見るのは、とてもいいものだし、みんなが喜んでくれているので、その喜びは尚更である。また、今回、いろいろと一人で努力してくれた野村さんに感謝をしたいと思う。

 さて、単に入力できるだけではなく、チベット文字を使ったWebサイト(これも大谷大学の真宗総合研究所チベット班や僕のゼミでの卒業制作として作ったもの)がiPadやiPhoneで使えるようになった。

1. 北京版チベット大蔵経目録

2. 真宗総合研究所チベット班公開のチベット文献のKWIC検索

などであり、さらに今年度もまたいくつかのサイトを作る予定である。これらはみな研究者にとっては基本的な情報源であり、これがチベット文字で入力できたり表示できたりするのは、とても気持ちがいい。

 さて、以上は僕が関わってきたものの話だが、このチベット文字を利用したチベット語の辞書があっという間に公開されていた。これはさっきのツイッターの書き込みで知ったことだが、情報が早いのには驚いた。Rangjung Yeshesのnitarthaの辞書サイトは、オンラインのチベット語辞書サイトとして有名である。しかし、これはローマ字転写で入力・表示するシステムであった。もちろん、これをチベット文字化してもよかったのだろうが、もっと便利なものを作ってくれた。オンラインではなく、単独で動く辞書アプリにチベット文字化したデータを提供してくれているのである。iPhone版は、こんな感じ。

iPhone_Dic1.jpgiPhone_Dic2.jpg

そして、iPad版は、こんな感じ。

iPad_Dict.jpg

残念なことに、辞書アプリは別なので、それぞれで700円ずつ払わないといけない。特にiPad用のDictは、あまり出来のいいソフトではない。たとえば、ソフト自身にクレジットが表示されず、説明もない。iTunes上では、説明があるものの、得たいのしれない北京の何とか公司作である。データの転送にも一苦労した。WifiでのFTP転送がうまく行かなかったのだ。ご存じかもしれないが、このiOS 4.2は、まさにiPadのWifi接続にバグがあって発表が10日ほど延期されたのである。まだ完全には直っていないのかも知れない。早くも12月13日には4.3が出るという噂もある。だが、とにかくデータを転送してからは問題なく使えている。

 見た目はiPadも分かりやすくできているが、やはりiPhoneでいつでもどこでもチベット語の辞書が引けるのは便利である。iPadではテキストを表示していたりするので、わざわざ辞書アプリを起動するようなことはしたくない。辞書は電子辞書のようにコンパクトになって初めて使い勝手がよくなる。

 さて、この情報は、Digital Tibetanという情報サイトに掲載されていた。もちろん、iOSだけではなく、WindowsやUnixの話題もいろいろと掲載されているが、最新のニュースはやはりiPhoneでのチベット文字のサポートである。

digital_tibetan.png

 iPhoneなどでのチベット文字用キーボードの使い方も詳しい。そして、上に挙げた二つの辞書についても、辞書アプリのリンクからインストールの仕方まで詳しく紹介されている(iPhone & iPod touch用iPad用)。iPhone、iPod touch、iPadをお持ちの方は、何はなくともこれをインストールすることをお薦めしたい。どういうわけか辞書を引くのが楽しくなること請け合いである。
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柄谷行人 無知の恥(ち) [チベット]

 僕は週末に東京に帰るだけなので、新聞は読まずに溜まっていく。週末にその週のものを全部読めればいいが、それができないとさらにその上に新しい新聞が追加されていく。いい加減時が経ったものはニュースの意味がないので、新刊書の宣伝や書評欄だけを読んで片付ける。そこで、10月24日の朝日新聞の書評欄に柄谷行人氏がフランス人の書いた『仏教と西洋の出会い』という本の書評を書いていることに気付いて読んだ。別に柄谷行人氏に興味があったわけではなく、監訳者が今枝由郎先生というチベット研究の専門家であり、仏教と言っても、大部分がチベット仏教に関するものであることを知っていたからである。

 ところが、これを一読して仰天してしまった。今でも多少は影響力のある思想家・評論家と思われる柄谷氏の理解が、あまりにも浅薄、ならともかく、全くの無理解と勝手な思い付きが書かれているだけであったからである。今どきこんなことを書く人もいるのかと、その時代遅れの説に驚いたのである。

 ただ、よく読んでみると、最初の印象とは異なり、大部分は本書の要約のようにも読み取れた。とすれば、手元にあったがまだ読んでいない本書がおかしなことを書いているのかもしれないと思い、大部な本なのでざっと斜め読みをしたが、少なくとも柄谷氏が要約しているようなことが書かれていないことを確認したので、その無理解を指摘することにした。

 まずは、この記事のタイトル「無知の恥(ち)」について説明しておこう。もちろんこれは「無知の知」をもじった言い方だが、意味は正反対である。

 何らかの批評をするのであれば、勉強してから書くべきであるし、分からないならば、あるいは知らないならば、そのようなことは書くべきではない。たぶん柄谷氏は、自分が分からないということさえ分かっていないのだろう。無知をさらけ出しているこにさえ気付かず、悪いことには、もし批判されたとしても何も聞く耳を持たずに関係のない自説を展開するに違いない。あるいは「自分は専門家ではないから」と言い訳するかも知れないが、それでもやはり「知らないことを知らない」で書いたことには違いないし、そのような専門外のことにまで口を挟むのを慎むのが誠実な態度だろう。だから、このような書評を書いたことを「無知の恥」を晒していると言いたいのである。

 ことがチベットだけならいいが(いや、よくはないが)、「無知」である自覚もなく文章を公表する「無恥」な人ならば、他の分野で書いたものも、同様の「無知」に基づく立論である可能性は高い。たまたまチベット仏教だけに勉強が足りなかったのではなく、一事が万事。これは知性の問題だからである。本を読んで理解する根本的な能力が欠如しているか、あるいはそもそも読まずに勝手な思い込みを書いてもその自覚がないような批評家の発言に耳を傾けている人は、そのあたりをよくよく注意した方がいい。

 さて、件の書評は次のようなものである。

■チベットへの憧れ、「鏡」としての歴史

【1】本書は、仏教が西洋においていかに受容されてきたかを古代・中世から包括的に考察するものである。その場合著者は、西洋人は仏教の理解を通して、実際は、自らの問題を表現してきただけだ、という見方を一貫して保持している。たとえば、ヨーロッパ近世の宗教論争においては、仏教に似ているという理由で他派を批判したり、その一方で、カトリック教会はラマ教(チベット仏教)に開放と寛容の態度を見出(いだ)し、それがカトリックに類似すると考えたりした。また、18世紀の啓蒙(けいもう)主義者は、カトリック教会を攻撃するために、仏教の合理性を称賛した。つぎに、ロマン派は啓蒙主義を攻撃するために、仏教を称賛した。さらに、ショーペンハウエルは、生を苦とみなす自分の考えが仏教と合致すると考えた。その結果、仏教は、彼のいう「仏教厭世(えんせい)主義」と同一視されるようになった。

【2】以上のように、中世から今日にいたるまで、仏教は西洋人が己を見る「鏡」以上ではなかった。ただ、本書が示すのは、西洋で「鏡」として最も機能したのはチベット仏教だということである。極東の仏教、特に日本の禅がもった影響力は少なくないが、知的なものであり、その範囲が限られていた。一方、チベット仏教は大衆的に影響力をもっている。西洋にはチベットへの憧(あこが)れが中世からあった。一つには、20世紀にいたるまで外国人が入れない「神秘の国」であったからだ。さらに、ラマ教が輪廻(りんね)転生の教義やそれに付随するさまざまな身体技法をもっていたからだ。これは、ブッダの教えの真髄(しんずい)が輪廻転生するような同一的な自己を仮象として批判することにあるとすれば、まったく仏教に反する見解である。しかるに、チベットでは輪廻転生の考えにもとづいて、ダライ・ラマの後継者が決められている。

【3】要するに、西洋人が「仏教」に見出すのは、西洋に存在しない何か、輪廻転生の理論やそれにもとづく魔術の類なのである。19世紀末にブラヴァツキーらが始めた神智学協会は、チベット仏教を称揚し、心霊的自我が転生するという考えを広げた。それは今日の「ニュー・エイジ」につながっている。著者は、エドガール・モランの「西洋は、自身の東洋を抑圧しつつ形成された」という言葉を引用する。つまり、チベット仏教は、西洋人にとって、みずからの内なる「抑圧された東洋」を開示するものだ、ということになる。

【4】しかし、本書の限界もそこにある。チベットは西洋の外に歴史的に存在する他者である。その社会がかつてどのようなものであり、今どうなっているかを見ることなしに、表象の批判だけですますことはできない。また今や、チベット仏教はたんに西洋人の「鏡」としてあるのではない。たとえば、ダライ・ラマ14世が世界を救済する指導者として熱烈に賛美されるとき、チベット仏教は、西洋人が中国共産党やイスラム原理主義者を抑制するための政治的な手段として利用されている。

『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール著、今枝由郎・富樫瓔子訳、トランスビュー、¥ 4,830 (著者は、62年生まれ。フランスの宗教学者・ジャーナリスト・作家。2004年、「ルモンド」紙の宗教専門誌編集長。邦訳のある共著に『ダ・ヴィンチ・コード実証学』など。)

(以上、http://book.asahi.com/review/TKY201010260202.htmlよりの引用、ただし段落番号は僕が付けた)

 僕がこの本にざっと目を通した限りでは、本書の主題は「西洋が真の仏教に目覚めていく精神史」を叙述したものである。最初は、かなり偏った、自分勝手な理解、想像が作り出したイメージから始まり、それがそのときどきの思想とも関係しながら、少しずつ実像に近づいていった。それは1959年のダライラマ法王を初めとするチベット人僧侶たちの国外への亡命、そこから始まる西洋への布教によって転換を迎え、さらには1989年という、いろいろな意味でエポックメーキングな年にダライラマ法王がノーベル平和賞を授与されてからの法王の活動によって、さらに仏教への理解は深まって行った、と書いてあるように思う。もちろん、著者は手放しで、全てが一直線にいい方向へと向かっていると考えてるわけではない。海外で活躍するチベット人僧侶の問題もあるし、またダライラマ法王を初めとする最前線の布教者が西洋人に対して法を説く仕方にも変化が見られることも指摘する。マスコミの熱狂と、それが「はやり」に過ぎないと指摘する一部の批評家の意見もとりあげている。

 だが、いずれも、それは西洋の側の「理解」が遠いところから少しずつ仏教へと目覚めていく、試行錯誤の過程として描かれ、チベット仏教そのものに対する批判は全く見られない。本書はチベット仏教自体の内容については多くを語らないし、また根拠を示した書き方もしていないので、著者が何に基づいてどの程度チベット仏教を理解しているかは分からないが、言葉の端々には非専門家としては十分な理解をしている様子が伺える。

 たとえば、柄谷氏が、「西洋にはチベットへの憧(あこが)れが中世からあった」のは、「ラマ教が輪廻(りんね)転生の教義やそれに付随するさまざまな身体技法をもっていたからだ。これは、ブッダの教えの真髄(しんずい)が輪廻転生するような同一的な自己を仮象として批判することにあるとすれば、まったく仏教に反する見解である。しかるに、チベットでは輪廻転生の考えにもとづいて、ダライ・ラマの後継者が決められている。」と書いているが、このようなことは、本書の中に見出せないどころか、逆のことを著者は言っている。すなわち

彼らは、チベットのトゥルク(化身)のようなまったく例外的な存在から着想を得て、秘境的仏教、つまり秘境伝授を受けた人々の教えは、死後の意識の根源を認めている、とほめたてた。これはチベット人の考え方を歪曲したものである。チベットの概念では、生から生へと生まれ変わる永続的な根源や個人的な意識の存在は、想定されていない。

 ただ、まったくの例外として、究極的な「覚り」の境地に到達したある種の人々は、(中略)他の人々が最終的な解脱に達するのを助けようという意図から、みずから進んで転生を選ぶのである。こうした慈悲ゆえの転生者たちは、チベット仏教でトゥルクの名で知られており(そのもっとも有名なものがダライラマである)、その存命中に、菩薩の誓い、すなわち、生きとし生けるものが地上で苦しむかぎり、自らがニルヴァーナに到達することはなく、生々死々の輪を最終的に離れることはない、との誓いを立てた人々である。

 ところが、このチベットの教義はよく理解されぬまま、アナートマン〔無我〕の教義を受け入れることのできない一部の西洋人に、個人的な意識が死後も存続するとか、ある永続的な根源がふたたび転生するといった考えを、またもや導入することを許し、混乱を生むことになった。(pp.179-180)


 本書は全編にわたって、西洋が仏教を発見していく記録であるが、著者はその時代時代の受け取り方を記述すると同時に、それが本当の仏教をどの程度歪めているかを語っている。その歪みが少しずつ是正されていくのを著者と一緒に辿っていくと、西洋がいかに、幼い子どもの思い込みから少しずつ成長していくかが手に取るように分かる。その意味で、たいへんおもしろい本なのだが、柄谷氏はそのようには捉えていないということになる。

 先の「ダライラマの後継者が決められる。」という言葉に続けて柄谷氏は「要するに、西洋人が「仏教」に見出すのは、西洋に存在しない何か、輪廻転生の理論やそれにもとづく魔術の類なのである。」とまとめているが、これとても、本書の歴史観のまとめにもならないものである。最近のダライラマ法王の倫理的な主張を説明するくだりまで本書を読めば、「西洋人が仏教に見出すもの」は決して「輪廻転生の理論やそれにもとづく魔術の類」であると著者が言っていないことは明白である。

 そもそも「ラマ教」という言葉を現在のチベットを知る人たちは全く使わなくなった。本書の中でも、それは歴史的な呼称として、ラマが尊敬されていることから名付けられた「ラマ教」という但し書きと括弧つきで使われているにすぎない(p.57)。しかし、柄谷氏は、何の制約もなく、ラマ教という言葉を使う。たぶん、その括弧付きの意味を説明している箇所を読み飛ばしたのだろう。

 著者が鏡の比喩を使うのも、それは西洋の何かを映し出している、という肯定的な意味ではなく、対象そのものを捉えずに、自分の勝手な思い込みで対象(つまり仏教、とりわけチベット仏教)を歪めて見ていることを指摘するためであり、単に「西洋人は仏教の理解を通して、実際は、自らの問題を表現してきただけだ、という見方を一貫して保持している。」からではない。

 著者が、現在の状況を(完全に手放しでというわけではないが)肯定的に捉えてるのは、たとえば、次のような言葉からも伺える。

 チベットのラマたちによる「目覚めた社会」と「全面的に平和な世界」に向かっての闘い、そこにおいては、神話と理性、予言と慈悲、魔術的思考と倫理的原則が、あまりにも渾然と混じり合っているように見える。筆者にはその闘いが、西洋に仏教が広がっていく、今まさに進行中の錬金術的過程を、きわめてよく例証しているように思われる。魔法から解き放たれた西洋は、結局のところ、魔法からの解放である一つの哲学〔仏教〕によって、ふたたび魔法にかけられることしか望んでいないのだ!(p.313)

 このレトリックを共感を持って解さなければ、この著者も現在の状況を冷ややかに「西洋は魔法にかかることを望んでいる」という今までの歴史を繰り返しているにすぎないと批判しているように捉えてしまうだろう(たぶんこのくだりまでは読んでいない柄谷氏もここを読めばそう解してしまうに違いない)。しかし、その前の修飾語は、仏教が「魔法からの解放」すなわち真実そのものをありのままに見ることを目指すものであることを意味している。西洋はそれに同調する方向に向かっていることを、単に文学的に(レトリックとして)ふたたび魔法にかかることを望んでいると表現しているにすぎない。この新たにかかろうとしている魔法は、むしろ、好ましい、肯定的なものなのである。

 もちろん、本書にも問題がないではない。チベット仏教の理解はやや皮相的だと感じる(それはこの著者の専門外の分野だからだろう)し、また翻訳も忠実に翻訳しようとするあまり、ややもすると誤解されそうな表現になっている。そのことは上に引用した部分にも見られる。だが、本書は西洋人のチベット理解がどのように成熟してきたかを歴史的に語る点に意味があるのであり、そういう意味では極めて情報量に富んだ本である。

 最後の柄谷氏の「ダライ・ラマ14世が世界を救済する指導者として熱烈に賛美されるとき、チベット仏教は、西洋人が中国共産党やイスラム原理主義者を抑制するための政治的な手段として利用されている。」という指摘は、著者の見解を離れたものであることを明言している通り、柄谷氏自身の意見である。これは事実とは異なることは改めて言うまでもないと思うが、少なくとも、本書がダライラマ法王の行動についてかなりのページを割いて「事実」を記述しているのを、まったく無視した結論である。一部に政治的な思惑をもって、政治的な手段としてダライラマ法王を賞讃する人がいないとも限らないが、少なくともそれは多くの西洋人がダライラマ法王を称揚するときに考えていることではない。ダライラマ法王を支持する西洋人の多くは、直接ダライラマに会い(少なくとも講演会や灌頂に参加してその人柄に触れ)、その人格的な魅力に魅了されてチベット仏教支援を表明しているのである。

 今、法王は来日され、風邪を引かれている中でのハードスケジュールをこなしている。その中で奈良の東大寺で大仏殿を参拝された。そのときにその場に居合わせた友人から次のような話を聞いた。奈良公園を通って大仏殿まで行く道は結構ある。そこをダライラマ法王は20人ほどの人たちと参拝に向かわれた。大勢の人がそこに集まり、道の両側に列をなしている中をゆっくりと歩かれ、人々と握手し、子どもがいれば頭を撫でて笑いかけ、身障者がいれば抱き締めながら歩かれた。その姿を後から見ていると、幸せを振りまきながら歩くというのは、このようなことなのかと思った、そうである。

 一体、他の誰がそのようなことをできるであろうか。握手をする人はいるかもしれないが、それが幸せを振りまいているように見えるような人は誰一人いないであろう。その姿は、常々ダライラマ法王が講演の中で説かれていることと寸分の違いもない。そこに政治的な思惑の入る余地はないし、またダライラマ法王の言動に感動する人たちも、そのような姿に感銘を受けているのである。

 北京オリンピックのとき、アメリカでの聖火リレーにおいて○国人たちとアメリカ人の若者たちがもみ合う場面がテレビで放映された。そこに一人のアメリカ人の青年が○国人に対して、「あなたはダライラマ法王を会ったことがあるのか。一度会ってみれば、彼がどういう人か分かる」と言いつのっているのが映っていた。もちろん、○国人にその訴えは通じることなく、何の答えもなかった。英語は理解できても、そのアメリカ人の青年が言っている言葉は、○国人には届かなかったのであろう。おそらく柄谷氏がダライラマ法王に会っても、何の感動も受けることはないに違いないが、そのことは、○国人同様、その人の精神の貧困を示しているのではないだろうか。
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