パネル終了 [チベット]
パネルのサイトで感想を募集していますので、是非書き込みをしてください。
また発表の資料や音声データ、写真なども順次公開していく予定ですので、是非アクセスしてみてください。
パネル「チベット仏教研究の可能性を探る」の聞き所 [チベット]
さて、パネルの方ですが、聞き所というか、実際、どういう意図で企画したのかということについて、非公式に書いておこうと思います。
僕の話は、まあ、総括と言いますか、問題提起のつもりでしたが、他の先生方の話の内容との兼ね合いで、別の視点を提供しようと思います。それは「教育」あるいは「後継者の育成」といったようなことです。つまり、これからチベット仏教を研究する若い学生や研究者に、チベット仏教研究の難しさと、ではどうしたらいいかを提案するつもりです。
次の根本先生と吉水先生は、顕教とくにゲルク派の中観や論理学研究の専門家です。根本先生は、2年間インドに留学して、ゴマン寺で直接ゲシェ・ハランパに教えを受けてきた研究者です。大学ではもちろん、インド仏教論理学の文献学的な教育も受けています。実際にチベット人に教えてもらった経験から、ツォンカパ研究や論理学研究についての考えを披瀝してもらおうと思います。
吉水先生は、僕と同世代で長くチベット研究に従事されてきました。最初、仏教論理学研究のセンターでもあるウィーン大学のシュタインケルナー教授のもとに留学し、そこで博士論文も出して学位を取得されました。その後も、ウィーン大学のみならず世界各国のチベット仏教研究者との交流を通じて、文献学的な研究を続けておられます。従来は失われたとも思われていたゲルク派の前身カダム派の古い全集が大量に出版されました。それの紹介と、それを使った研究の方向性についてお話いただけると思います。
次の安田先生と平岡先生の専門は密教です。安田先生は日本では珍しいニンマ派の研究をされています。まだ若い研究者ですが、日本のチベット学を牽引してきた京都大学の御牧先生のもとで基礎を学び、そのあとドイツのミュンヘン大学に留学されました。ニンマ派の研究についての文献学的な研究をされているわけですが、ご存じのようにニンマ派ないしは密教の研究は、文献の読解だけでは分からないこともあります。その辺のディレンマについて、ご自身の研究スタンスも含めてお話いただければと思います。
最後の平岡先生は、チベット密教総本山のギュメ寺に2年留学し、そこの傑出した学僧ガワン・ロサン先生(顕教のゲシェであるだけでなく、密教のゲシェでもあり、ギュメ寺の僧院長も勤められた)にずっと師事して教えを受けています。行も実際に行っていると同時に、チベットの最高の知性の指導のもと秘密集会タントラのゲルク派の解釈について研鑽を積んでいます。密教研究のあり方を、実体験を踏まえて提言していただけるものと思います。ビデオも見せていただけるそうです。
印仏研パネル「チベット仏教研究の可能性を探る」のサイト [チベット]
各発表者の発表要旨も公開しています。是非ご覧下さい。また、お知り合いの方にご紹介いただければと思います。
チベット仏教研究の大学院生求む [チベット]
やはり正式な授業で担当できることは、とても重要なことで、学生の側からしても、他に所属の指導の先生がいるのとは違って覚悟ができてきます。
そこで、これからことある毎に、大学院生の募集をしたいと思います。修士課程でも博士課程でも結構です。今ですと、修士課程の秋季試験があります。
僕の持論では、チベット仏教で一人前の研究者になるのには5年かかると考えています。基礎を学び、読解力を身に付け、テキストを探し、テーマを探し、論文を書けるようになるには、やはり5年が必要です。その覚悟は必要ですが、現在、最初からチベット仏教を大学院で手取り足取り指導してくれるところは決して多くはありません。ですので、勉強したい、研究したいという方は、是非、大谷大学の大学院も一つの選択肢にして下さい。あるいは僕の所で学びたいという方、是非、大谷大学の大学院に来て下さい。
大谷大学には真宗綜合研究所という研究機関があり、そこにチベット文献研究班が組織されています。メンバーは少ないのですが、その分小回りが利きます。ここには現在週一でチベット人の元ゲシェ・ハランパ(最高位の博士号)の方が来ています(来年度は未定)。分からないことはいろいろと教えてもらえます。また、研究班でのチベット関係のアルバイトも可能です。
社会人の方や、リタイアされてチベットを勉強してみたいという方も歓迎します。大学院社会人入試という制度もありますので、ご確認下さい。
今回も宣伝でした。
チベット仏教の学び方 [チベット]
要するに、チベット仏教はインド仏教の最も正当な後継者で、しかもそれを論理的体系的に整理し、その伝統を今にまで伝えるものなので、仏教、特に大乗仏教の精神を学ぶには最適ですよ、そのためにはこういう風に勉強するのがいいですよ、というような内容です。
この前の「チベット仏教研究の可能性を探る」というパネルも、同じようにチベット仏教を学んで欲しいという思い(ただし、対象は違いますが)が元になっています。
講話の録音データと、配布資料(プレゼン書類のPDF)と、話の中で言及したツォンカパのラムリム小論からの引用のPDFを公開しています。他にも、今年の前期、大学でやったラムリム小論の講義の録音データも公開していますので、よかったらどうぞ。→「チベット文献講読会」
チベット仏教研究の可能性を探る [チベット]
9月8日・9日と大谷大学で印度学仏教学会第60回学術大会が開かれます。その中でチベット関係のパネルをやります。題して「チベット仏教研究の可能性を探る」です。時間は、9日13時30分〜16時、大谷大学の1号館2階1204番教室です。同時にもっと人気のありそうなパネル(梵文写本研究の現状と課題)がありますので、チベット仏教研究に関心のある人にできるだけ来て欲しいと思います。
以下、パネルを申し込んだときの「発表内容、企画の要約と意義」を転載します(手抜きですみません。別に特設サイトを作成しました。詳細はそちらをご覧下さい。)
最近のチベット仏教研究は、大きく様変わりをしてきた。チベット人僧侶の海外における布教、チベット仏教文献の大量の出版、インド仏教研究の延長ではないチベット仏教プロパーの研究の進展など、1980年代までの研究とは全く別物と言ってもいいほどである。
しかし、次々に刊行される膨大な文献に比して、チベット仏教研究の成果は必ずしも豊富とは言えない。まだまだ未開拓の分野、領域、テーマばかりが山積みである。膨大なチベット仏教文献の大分部には手も付けられていない。なぜ研究の裾野が広がらないかを考えるとき、そこにチベット仏教研究の方法論的な難しさが浮かび上がってくるように思われる。
現在、日本で活発にチベット仏教を研究している、あるいは研究することが期待されている先生方に、それぞれの研究の方法論、スタンス、そして今後のチベット仏教研究を志す若い研究者への提言などを報告いただき、それに基づいて、方法論的な問題についての意見交換および議論をしていただき、今後、チベット仏教研究をどのように進めていったらいいのか、その可能性を様々な角度から検討したいと思う。
特に、世界のチベット仏教研究の動向に比して、日本における研究者の層は薄いとも思われる。なぜ、日本のチベット研究が盛んにならないのか、そしてどうしたらいいのか、その原因と解決策についても探りたい。
パネリストと、その発表タイトルは次の通り。
(1) 福田洋一「チベット仏教のためにできること」
(2) 根本裕史「ツォンカパ研究の方法論的展望」
(3) 吉水千鶴子「新出カダム派文献研究とチベット仏教思想史の再構築」
(4) 安田章紀「ニンマ派研究の現状と展望」
(5) 平岡宏一「チベット密教研究に関する方法論:ゲルク派ギュメ密教学堂での伝統的教授法を通じて」
発表の後、パネリスト同士でディスカッションというか、いろいろと雑談をしたいと思っています。もちろん、聞きに来ている人も自由に発言してもらって構いません。
タイトルだけ見ると固そうですが、何人かのパネリストとお話しして、チベット研究はどうしていったらいいのか、個人的な経験をもとに、論文に書けないようなことをざっくばらんに話してもらおうと思います。
レイプ・オブ・チベット [チベット]
何事にも年季というものは必要である。学問の世界もしかり。にわか勉強で何とか評論めいた意見は書けても、長年取り組んできた専門家から見れば、やはりピントのずれた勝手な解釈を平気で書いていることがある。それがずれているということさえ、本人は気付かない。そして、さらに何も知らない一般の人は、どの内容が正しいのかも分からず、数の多いもの、声の大きいもの、権威ある肩書きやメディアなら、正しいことをいっているだろうと判断してしまう。
もちろん、にわか勉強でも筋のいい情報に依拠して、それを再生産している場合には、それほど被害は大きくない。しかし、その真贋の判断は一般の人には難しい。
そういう中で、チベット問題全般についての、現在日本語で読める最も正確な情報と解説をしているのが、この本である。チベット問題の難しいところは、中国側が大量に声高に繰り返し主張することを、各種メディアが無批判に垂れ流し、中国人がその洗脳に染まっているばかりではなく、多くの日本人もそれを前提とした議論をしてしまうことにある。
しかし、中国側の言い分とチベット人、あるいはダライラマの言い分を公平に、論理的に比べてみれば、中国側の言い分は全て、事実ではなく、本人達の願望を述べているに過ぎないことが明瞭である。問題はとてもクリアなはずなのに、それをクリアに理解している人は少ない。
この本は、まさにそういうクリアな視点から、クリアなことしか書いていない。チベット問題を語る人は、この本を読んでから語るべきであり、しかし、この本があれば、それ以上の何を語る必要があるのか、分からなくなるに違いない。マスコミは、情報を再生産させることで購読者を確保しようとするから、決定的なものが出ても、なお、それ以外のものを求めて、いろいろな人を担ぎ出すだろう。後は読者が情報を見極める目を持たなければならない。そのための正しい情報源がここにある。
レイプ・オブ・チベット―中華的民族浄化作戦 (晋遊舎ブラック新書 11)
- 作者: 西田 蔵之助
- 出版社/メーカー: 晋遊舎
- 発売日: 2008/08
- メディア: 新書
本当の幸せを求めて [チベット]
久しぶりの更新ですみません。春休みは、実は休みではなく、普段できなかった研究をいろいろやっていて、かなり忙しかったのです。まだやるべきことは残されていますが、もうすぐ新学期が始まりますので、心機一転ブログの方も復活したいと思います。
3月16日、大学の生涯学習講座という社会人向けの講座でチベット仏教の話をした。と言っても、一般の方、特にお年寄りが多いので、チベット仏教についての全般的な話ではなく、ダライラマの思想の一端を、仏教色を廃して分かりやすく説明した。
以下は、そのとき配布した資料である。「プラスの感情・マイナスの感情」の節は僕の書き下ろしだが、他は、ダライラマの著書『幸福論』からの要約ないしは抜粋である。口頭での説明がないと、雑然として十分に伝わらないかもしれないが、これらの言葉のどれかにでも関心を持ってもらえて、ダライラマの著書を読もうと思ってもらえればうれしい。
この本は、平易な言葉で人間の生き方を説いている。言葉は平易だが、それを自分の身で納得して引き受けるのには、それなりの時間が必要である。さらにそれを実践していくとなると、もっと時間がかかる。少しずつ実践しながら、しかも、また読み直すことで、さらに理解を深めることができる。つまり、一生ものの本である。是非、座右に備えていただきたい。
ダライラマの教え
『ダライ・ラマ 幸福論』ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著 角川春樹事務所、2000年。
真の幸福とは何であり、それを実現するにはどうしたらいいかを、仏教の知識や教義を前提とせず、道 徳ないしは倫理の問題として分かりやすく説いたもの。原題は、¥textit{Ethics for the New Millennium}、つまり『新しい1000年期のための倫理学』。
今日の講演では、ここで説かれた教えの一部、その概要を、少し別の視点から分かりやすくお伝えする。
人間の基本的な願い
- 人は誰でも、幸せを望み、苦しみを避けようとしている。幸せを望み、苦しみを避けたいと思う ならば、誰でも、それを実現する権利がある。
- ある行為が、道徳に適っているかどうかを考えるとき、その行為が他人にどういう影響を及ぼす かを考える必要がある。他人の幸福を求める心を制限するのか、他人の幸福を増大させるのか。
- 自分一人の幸福を追求しても、真の幸福は得られない。自分の利益と他人の利益は一致する。
幸せとは何か
- 感覚的な快楽、五官の楽しみは、一時的なものにすぎず、それを維持しようとしたり、それを失 うことで苦しみの原因となる。
- 心の苦しみは、私たちが衝動的に一時的な幸せを求めるところから発生する。
- 本当の幸せとは、心の平安である。心の平安には、外面的な要素は役に立たない。私たちの基本的 な姿勢、つまり外の世界とどのように関わっていくかを考えることが、心の平安を得る上で一番重 要である。
- 他人のことを思いやれば、それだけ自分のことを思い悩まなくなる。自分のことを思い悩まなけ れば、それだけ私たちの苦しみは軽くなる。
プラスの感情とマイナスの感情
- 仏が共通に教えたことがある。「諸悪を作ることなかれ。衆善を奉行せよ。」善を行い、悪をな さないことが、真の幸せにつながる。
- 善とは何か。悪とは何か。善や悪は、行為であるよりも前に、まず心の問題、心に生まれた感情 の問題である。善い行為を引き起こす感情をプラスの感情、悪い行為を引き起こす感情をマイナ スの感情と呼ぼう。
- プラスの感情:
愛情、親愛の気持ち、思いやり、優しさ、共感、善意、誠実さ、寛容さ、平静な心、許す心、困っている 人を助けようとする心、人が幸せになるのを喜ぶ心、安らぎ
- マイナスの感情:
怒り、敵意、憎しみ、苛立ち、悪意、不寛容、蔑視、差別感、優越感、暴力的な心、攻撃的な心、人が不 幸になるのを喜ぶ心、むかつき
- プラスの感情は、全て、他人に対する思いやり、他人を大事にする気持ちを基礎にしている。利他 的な心と言える。マイナスの感情は、全て、他人を傷つける、他人を害する感情を基礎にしている。 排他的な心と言える。
- マイナスの感情は、他の人を傷つけるだけではない。自分の心にも知らず知らずのうちに悪い影響 を残していく。逆にプラスの感情は、他の人に良い影響を与えるだけではない。自分の心にも知ら ず知らずのうちに良い結果を残していく。心に蓄積する悪い影響は不幸や苦悩を引き起こし、良い 影響は心の平安と真の幸福を大きくしていく。
- マイナスの感情とプラスの感情は拮抗しているので、マイナスの感情が起こりそうになったとき、 それに囚われる前に、プラスの感情を思い起こし、マイナスの感情の力を弱めていく。そうするこ とで、心を少しずつでも、穏やかなものにすることができる。利他的な気持ち、行いが、本当の幸 せ、真の幸福をもたらす。それが「自利」である。
他人を傷つけないためには
- 他人を思いやるためには、他人に感情移入する能力が必要である。これは人間の基本的な能力で ある。
- 他人に感情移入することで、他人の苦しみを見るに耐えられないという気持ちを起こすことが出 来る。
- 他人に感情移入することで、自分の行為が他人にどのような影響を与えるか、他人を傷つけない か、他人の幸福を制限しないか、考えることが出来るようになる。
- 怒り・苛立ちを抑えるには、「忍耐」が必要である。「忍耐」とは、自分の欲望や自然な感情を我 慢することではない。「持ちこたえる力」を意味する。「持ちこたえる力」とは、マイナスの感情 に押し流されそうになったときに、プラスの感情によって、押し流されずに持ちこたえる力を指す。 自分の欲望を抑えることではない。プラスの感情を大事にすること、育てることによって、忍耐を 養う必要がある。
全ての人に対する思いやり
- 自分に関係のある人に対する思いやりは、本当の思いやりではない。これは理由があるから思いやっ ているが、その理由がなくなれば、思いやりも無くなってしまう。自分に関係のある人に対する思 いやりは、自己愛の延長、自分の満足を求める心に他ならない。自己愛は結局苦しみをもたらす。
- 全ての人は、等しく幸せを望み、苦しみを避けたいという願いを持っている。その点に違いはない。 だから、思いやりは特定の人に対するものではなく、全ての人に対して向けられるべきものである。
- だからといって、全ての人のために直ぐに行動を起こす必要はない。問題は行動ではなく、それに 先立つ心のあり方、他者の幸せを願い、他者の苦しみに共感する心のあり方である。心が、思いや りを基礎とするプラスの感情に満たされれば、本当の幸せを実現することができる。
- 全ての人に対する思いやりを持ち、全ての人の幸せを願い、その苦しみを取り除こうと考えて行動 することを、ダライラマはUniversal Responsiblity「普遍的な責任・地球規模の責任」と言って いる。これはPersonal Responsibility「自己責任」と反対の考え方である。「自己責任」という言葉の背後には、「あなたのことはあなたが責任を持ちなさい。私は関係ないです。」という意図が見える。これはダライラマの説く、あなたと私を区別せず、あなたの幸福と私の幸福は一致する、そして、全ての人の苦しみに感情移入し、全ての人の幸せを願う、という行き方の対局にある考え方であることは、明らかだろう。
昨日、日本西蔵学会がありました [チベット]
一年に一度の日本西蔵(ちべっと、と読みます。)学会がきのう、龍谷大学大宮キャンパスで開催されました。大体、関西で10校程度、関東で6、7校程度が毎年順ぐりに会場になります。僕は、ここ20年以上、毎年出席しています。というのも、この5年くらい前までは、この学会の事務局を担当していて、委員会での議事の準備や報告、開催校との連絡、大会での報告などをしていましたので、どこであれ、出席しなければならなかったのでした。
その当時は学会の事務局が前に僕の在籍していた東洋文庫にあったのでしたが、今は、これまた僕の在籍している大谷大学に事務局が移転しています。といっても、もう僕は事務局を担当しているわけではなく、別の先生に代わっていただいています。もちろん、同じ大学ですし、お手伝いは(少しは)しています。
以前、西蔵学会は午後1時から4時くらいまでに研究発表を行い、その後、総会、懇親会と進んで行ったのですが、ここ数年は、午前中に「コンピュータ利用懇談会」というのを10時から開催しています。これは、チベットに関するコンピュータ処理について、会員がそれぞれ報告をしたり、情報交換をしたりする会で、僕は事務局のお手伝いとして、この会の司会をしたり、事務局でのコンピュータ処理の作業について報告したりします。
今年は、これといった目玉になる報告はできなかったのですが、現在西蔵学会で公開している「日本におけるチベット研究文献目録」を、オンラインデータベース化して、Web上で入力や検索ができるようにする、という計画を報告しました。これは僕のゼミの4年生が卒論で取り組んで、ほぼ完成したものです。僕のゼミのテーマは「人の役に立つものを作る」ですが、こういうように、すぐに実用化できたのは初めてです。
午後は研究発表が8つありました。昨年の学会では、仏教についての研究で、純粋にチベットで書かれたものを扱った研究は少なかったのですが、今年は仏教もそれ以外(歴史が一つ、言語が一つ)全部、ほぼ純粋にチベットに関するものでした。
その中で僕の知り合いというか、一緒にいろいろやっていたりするのが、4人ほどいました。これは決して自画自賛ではないことを断っておきたいのですが、今年の発表には、感慨深いものがありました。というのは、そのうち二人は東京で僕がずっと続けているチベット語文献の講読会で教えてきた人で、その一人は論理学、もう一人は中観をやっています。その論理学は昔僕が書いた論文で触れたことを、より精密に、というか、主題的に取り上げた論じたものでした。その論文も15年くらい前に、まだだれもそんなことについて書いていないころ、何の参考資料もなく、直接原典を読んで、手探りで書いていたものでした。その後、僕のチベット論理学の理解も随分と進んできていて、そういう手ほどきを講読会でしていたのですが、彼はそれを前提として、もう一度より詳しく同じテーマを取り上げ直したのでした。
もう一人ツォンカパの中観思想をやっている人は、現在、大谷大学で僕が指導教員となって研究員をしている人で(と言っても、たまにしか指導をしていませんが。)、最近の僕のツォンカパについての研究とほぼ同じ領域を、少し違った角度から研究しています。といっても、領域が同じ、つまり、ツォンカパの中観思想ですから、内容はかぶっていて、僕が書いたようなことを別の角度から検討する、別の角度から表現する、といった研究をしています。逆に言うと、僕の意見との相違を明確にしないと(解釈の問題ですから、違っていることは事実なのですが、その違いを明確に表現しないと)、聞いている側には、何かよく分からない、という印象が残ってしまいます。まあ、いずれにせよ、僕の研究の一部を引き継いでいる、といっていいでしょう。別に任せたわけではないので、僕は僕で、僕自身の理解と表現で自分の論文を書いていくつもりではありますが。
それからもう一人、サキャパンディタの伝記について発表した人がいました。これは僕のお膝元大谷大学の大学院生ですが、指導教員は僕ではなく、同じ学内にいても、あまり顔を合わす機会はないのですが、その人が、それこそ20年前に、僕が妻と最初に共同研究で作った、そしてそれがきっかけになって結婚することにもなった記念碑的著作(?)『西蔵仏教宗義研究』「トゥカン著『一切宗義』モンゴルの章」で、僕が研究したサキャパンディタの伝記の研究を引き継いでやっていたのでした。僕はその伝記の後半部分、つまりサキャパンディタの晩年の部分をやったのてすが、その人は、残りの前半部分を検討したのでした。僕自身は、もう随分昔の研究で、しかもその後、その路線を続けていないので、何を書いたのか忘れていたのですが、結構いろいろ言っていたようでした。
この三人の研究がみな、僕が昔(ないしはごく最近)やったことをそれぞれの分野で引き継ぎ、さらに発展させてくれていることに感慨深いものがありました。8人の発表者と言っても、そのうち二人は中国から来たチベット人の研究者でしたから、日本人は6人、そのうち、3人がそういうふうでした。残りの1人は、以前からの知り合いで、日頃も付き合いがあり、チベットから高僧がいらっしゃって灌頂などがあるときには、さそってくれる人で、ツォンカパの密教の研究者ですから、分野的にも近いものがあります。もう一人は、学会でお会いする以外には直接つきあいはないのですが、内容的には中観思想における重要な術語についての研究で、ただどちらかというと、インドよりの研究でしたから、やや離れるものの、一部は僕のチベット仏教の中観の研究に関係する部分があります。もう一人は、なんと上に挙げた僕が指導教員をやっている研究員がチベット語の手ほどをした学生で、まだまだ勉強が足りませんが、それでもある意味では僕の孫弟子という関係になります。と言う具合で日本人の発表者はみな何らかの形で僕の関係する人でした。
もちろん、僕はまだ研究を放棄したわけでもなく、またそういう歳でもありませんし、僕の研究は僕にしかできないので、やはり自分の理解をより進めるために努力をしていきたいと思っています。その決意を新たにする、と言う意味でも感無量の一日でした。
ご無沙汰していました [チベット]
ずいぶん長い間、更新をサボってしまいました。どうしてだったのかは、僕にもよく分かりません。毎日話題を考え、それなりの長さを書くのは、結構骨が折れるものです。この間に論文とか、講演準備とか、そして今はチベット語文献の翻訳とかをしているので、文章を考えたり、書いたりというパワーを使い尽くしてしまっているのかもしれません。
どのくらい読んでくれる人がいるのか、あるいは待っていてくれる人がいるのか分かりませんが、何人かからは、更新してほしいという声もあるので、(ご期待にそえるものが書けるかどうかは分かりませんが)何とか再開したいと思います。
今日、大学の方に、朝倉書店から出版される『仏教の事典』という本の「チベット仏教思想の展開」(正確には覚えていない。)を書いてほしいというような依頼が来ていました。原稿用紙20枚ということなので、結構まとまった量があります。普通事典の項目は1枚~5枚くらいの短いものが多いのですが、たぶん「引く事典」ではなく、「読む事典」ということなのでしょう。
といっても、チベット仏教思想の流れを全体として記述するとすると、20枚で足りるものではなく、したがって、どれだけ内容を絞り込むか、最低限のミニマムの内容をどう選定するか、どうしたら、それで一般の人がチベット仏教の全体的なイメージを具体的に持ってもらえるかを考えなければなりません。締め切りが来年の3月なので、2月くらいまでは、絞り込みをしていくことになるでしょう。
面白いことに、同じチベットの教団の展開のような歴史的な部分は、妻(石濱裕美子)の方に執筆依頼が行っているようでした。今日、僕は東京を離れて京都に来ているので、直接妻に確認したわけではないのですが、僕の方に来た依頼状の分担表にそう載っていました。自分たちの方で企画を立てるときには、一緒にやったりしますが、他の人が企画した本で一緒に書くのは、初めてです。
今やっているチベット語文献の翻訳も妻との共同作業で、週末に東京に帰ったときには、訳の突合せをやっています。(そればかりではないのですが。DVDを見たりとか、毎晩おまいりに行ったりとか・・・。これについては、また別の機会に書きます。)チベット仏教を代表する仏教者ツォンカパの伝記で、直弟子たちによって書かれた、いくつかの古い伝記を翻訳しています。今回は、ツォンカパ自身が書いた、自分の勉強の記録の訳を検討しました。
妻は歴史的な文献を読み慣れており、僕は教義的な文献を読み慣れているので、それぞれ補い会いながら読んでいる、と言えば、聞こえはいいのですが、ことはそれほど単純ではなく、それぞれの立場から、意見や訳の異なることもあり、さらに、文法的、辞書的な意味はいいとして、分かりやすい日本語にするときの文体の違いなどの表現面での食い違いが結構あります。
こういう翻訳というのは、実は、内容の理解が半分、あとの半分は、日本語でどのように分かりやすく表現するか、という点に頭と時間を費やします。そのため二人の日本語感覚の違いの調整に結構時間がかかることになるのです。
とりあえず、今年度中に、伝記の小品を4つほど訳して科研費の報告書を作り、来年度には一番大きな伝記を訳して、これはどこかの出版社で出したいと思います。これによって、仏教がさらに広まり、一切衆生の利益になりますように。