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PowerPointプレゼン作成を黒板で [ゼミ・教育]

ゼミで学科のオフィシャルWebサイトを作っていて、ほぼ完成(内容が完成ではなく、とりあえず公開予定のものが揃ったということ)に近づいてきたので、8月1日のオープンキャンパスで、そのMakingをプレゼンしようと考えた。もちろん、僕がプレゼンするのではなく、学生の手作りWebサイトなので、そのmakingも学生に作ってもらうことにした。

 まだ作業中の人もいたので、手の空いた二人を連れてきて、ブレーンストーミング風に、ホワイトボードの前でマジックを持たせ、どういう風にプレゼンするか、そのアイデアをホワイトボードの上に書いていくように指示した。メイキング・オブ・Webサイトだから、基本的には、作成の動機や過程、成果を分かりやすく提示できればよく、画像は直接Webページを見せればいいので、とりあえず、文字で説明することにした。

 そうしてものの10分か15分もすると、一応のアウトラインが出来上がっていた。二人はいろいろ雑談風に話をしながら、思いついた言葉などをホワイトボードに書き、矢印で進行を書き、また消したり書き足したり、向きを変えたり、というように試行錯誤して、まとめていったようだった。(任せていたので、僕はサイトのファイルの整理やアップロードをしていて、遠目に見ていただけ。)

 そして、今度はそれを元にPowerPointの書類を起こしていった。アウトラインがあるので、文字によるプレゼンファイルは、あっという間にできあがったし、軽快な展開になっていた。

 大学導入の科目で、一年生にブレーンストーミングやKJ法を教える授業が新設されたことは、これまでのブログで書いてきたが、このゼミ生は3年生で、当然その授業を受けていない。しかし、やっていることは、まさにその導入の授業で教えようとしていたことの簡略版だったと言っていい。

 実はこのゼミ生には、昨年度と今年度にKJ法の応用のようなグループ学習を実験的に導入していた。去年はあまりうまく行かなかったが、今年はゼミ内という気心の知れた仲間でやったせいか、とりあえず形だけはスムーズに行って、プレゼンも作ることができたが、内容は必ずしも満足できるものではなかった。

 それが、今回は簡単に、あっという間にプレゼンのアウトラインというか、言葉の部分ができてしまった。ホワイトボードで、書き直しができる、ということが良かったのかもしれない。またこれをパソコン上でやっていたら、一覧性が悪いので、つまりプレゼン全体の流れを見渡せないので、やはり全体の纏まりがなくなっていたかもしれない。

 ずっと前にも書いたことだが、手書きの効用というのがある。プログラムを作るときも、Webページを作るときも、手書きでラフスケッチをすることで、全体像を掴みやすいのである。こういう手法はペーパー・プロトタイピングとも言う。それと、ブレーンストーミング風の雑談から発想、そして矢印を使いながらの流れや展開の図示というKJ法的な要素、これらが相まって、うまくプレゼンを作ることができたのだと思う。

 もちろん、自分たちが辿ってきたことを説明するということで、新たな発想を提示する必要がなかったし、よく内容を知っていることをまとめるだけだったので、作りやすかったということもある。テーマによっては、簡単にアイデアが出ないので、ホワイトボードを前にしても、白いままになってしまうことも考えられる。だから、このペーパー・プロトタイピング的なやり方が方法として優れている、とまで言えるかどうかは分からない。

 しかし、テーマが難しい、あるいは身近でない場合に、どういう方法を用いるかは、また別の問題だ。つまり、まず調査をしてそのテーマについて慣れ親しむことが必要だろう。しかし、その後でそれをまとめる段階では、黒板やホワイトボードを前にして雑談をしながら話をまとめていくのは、とても有効な方法ではないだろうか。


私語が多い授業 [ゼミ・教育]

 大学の授業は崩壊していると思えることがある。実際には、思ったより真面目に行われている部分もある。学生も、教師も含めて。

 僕の担当している授業でも、うまくいっている授業とうまくいっていない授業がある。教師は同じなので、違いは学生の方にあるのかもしれないし、授業内容にあるのかもしれない。

 問題は、学生が真面目に授業内容に取り組まないことにある。いろいろな意味で真面目ではない。まず一番大きいのは私語である。これは大学の多くの先生の共通の悩みだろう。そのための様々な工夫を凝らしていることと思う。僕はと言えば、余り工夫はこらしていない。もちろん、注意はするが、そして大抵の授業ではそれでしばらくは静まる。ただ、しばらくするとまた私語を始める。

 大体私語をするのは一部の生徒であり、しかも、お気づきのように、教室の後ろの方に固まって座っている。教壇から遠いというのは、私語がしやすい、ということよりは、教壇で行われている授業からの心理的な距離を著しているのだろう。つまり、遠くで行われていることに対して、身近に感じず、その精神世界に参加していない、ということの現れである。どのような学生も引きつけ、聞き入らせる巧みな話術を心得ていれば、もしかしたら、どこにいようと耳を傾かせることはできるかもしれない。しかし、それは原理的には可能かもしれない、というだけであって、たとえ、話がおもしろい、話術が巧みな先生であっても、全員を振り向かすことはできない。僕の妻はそういう話術が巧みで、熱心に通う学生もいるが、しかし、やはり私語はされている。私語がうるさくて授業に集中できないので注意してほしいという苦情が来たりもする。だから、どうも話術の問題ではないらしい。

 実は、数日前に書いた大学導入科目の授業が、ひどい私語に悩まされた。80人程度だが、一つの学科の一年生全員を相手にしての授業だった。といっても、最初に大教室に集まり、出席をとり、その日にやる作業の説明をしたあとは、20人ずつのクラスに分かれ、さらに7人くらいずつのグループに分かれてグループ学習をやるのが中心の授業である。

 私語がうるさいのは、全体の講義のときである。大学での研究の仕方を、方法として体験してもらう授業で、その具体的な手続きを説明するだけであった。大抵15分から20分くらいの、最低限の説明にして、あとは具体的な作業をさせて、その中で分からないところを説明していくようにしたが、その15分か20分が持たないのである。

 困ったことに、真面目に聞きたいという学生もいる。少なくとも黙ってこちらに顔を向けて話を聞いている学生が半分以上はいた。しかし、教室のうしろ半分では私語がかなり目立った。学生が私語をしていると教師は必要以上に疲れ、さらには集中できない。そのため、じっくり話をするような気がなくなる。できるだけ手短に話を切り上げようとする。AとBとCを話そうと考えていた場合には、Aだけで終わりにしてしまう。

 学生の側では、単位をとれれば内容についてはどうでもいい、という気持ちが強いように思う。単位をとるために出席をとっているので、それさえクリアーしたら、授業内容は聞く気がないかのようだ。こうなってしまうには、いろいろな要因があり、またその授業の特殊な性格によるところも大きいだろう。ただそれは、問題が先鋭に現れているだけのことで、多くの講義科目で同様の問題を抱えていることと思う。

 では、どうしたらいいのだろうか。難しい問題だ。

 残念ながら、僕自身はうまい方法を見出してはいない。たとえば、教壇に立ってではなく、学生の間を練り歩きながら話をしてみたりする。しかし、黒板を使わずに全部を説明するのは難しい。また、近くを通ったときには静かにするが、遠ざかるとまた私語をする。あるいは、授業を受けないのは自己責任ということで、無視して前にいる学生のことだけを考えて話をすることもできる。しかし、だからと言って、それは授業が崩壊していることを示すだけである。

 これは、学生が真面目に授業に取り組まない、という問題を抱えていて、一週間でどうにかなるのではない。まずはそこから出発するのがいいのかもしれない。


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卒論の重み [ゼミ・教育]

これまで何度もこのブログで、卒論・卒業制作に時間と労力をかける必要を説いてきた。いいことか悪いことかは分からないが、様々な理由で、現在大学生は3年生までにほとんどの単位を取ってしまい、4年生はゼミと卒論を残すだけ、あるいはあと一つか二つの授業をとるだけになっている学生が多い。

 その余った時間は、まずは就活に注がれるが、それも5月から6月がピークで、そこで内定が出ると、あとはやることがなくなってしまう。アルバイト、旅行、友人と遊ぶ、もちろん、残っているゼミや卒論のこと、少しずつは手を着けるが、3年まで毎日のように大学に通っていたのに対し、4年生は大学に通わなくなる。

 通わないだけで、自分できちんと勉強していればいいが、一人で勉強を続けるには、多大な精神力を必要とするので、現実問題、勉強はしなくなる(ように見える)。

しかし、卒論は、きちんとやろうとすると、それほど甘いものではない。というか、適当にこなすか、自分の学校生活の総決算、到達点として充実したものにできるかは、その人の取り組み方次第なのだ。もちろん、適当にこなすといったって、やはり、人の文章のコピペだけで通るほど甘くはないので、何か調べて、曲がりなりにも自分の論を展開する必要はあるが、原稿用紙50枚から100枚程度で、出来を気にしなかったら、一月もあれば、それなりのものが書けるだろう。

 しかし、きちんとやろうとするならば、1年近くの時間をかけて、じっくりと取り組む必要がある。これまで、一つのことについて1年をかけて取りくみ続けた経験はないだろう。レポートや課題はせいぜい2、3週間の日程で、実際に作業をするのは、数日といったところではないだろうか。ある一つの作業をこなすだけで、それがそれなりに大変だったとしても、とにかくひとまとまりの成果が出た。

 それに対して1年間作り続けるということは、どんなことか未経験のことだ。だからそれを甘く見てしまう。1年間、こつこつと積み上げていくということに耐えていくのは並大抵のことではないが、それだけではなく、それがどういうことか分からないまま、目の前の出来事や用事の方を優先してしまい、時間が余ったら、それを卒論に当てる、という生活を送ってしまう。気付いたときには、締め切りが近づき、結局は不本意なまま提出することになる。企業だって、卒論はいい加減でいいと思っているところはない。本当は、人事担当者だって学生のころはいい加減に卒論を書いたかもしれない。しかし、そのことを後悔しているとすれば、現役大学生には、きちんと卒論に取り組んでほしいと思っているだろう。

 優先順位を逆にしなければならない。まず、卒論のために時間を確保することだ。それが学生の本分であり、学生のやるべき最後の仕事なのだ。他のことは、その卒論の合間に時間を配分する。しかし、卒論だけは、毎日、出来る限りの時間を割くべきである。それを一年間続ければ、どれほどのものが出来るだろうか。今、大学四年生の人は、それがどのくらいのものになるかを想像できないだろう。君たちの思い及ぶ範囲を超えたものを作ることができるのだ。想像できないとしても、とにかく時間を掛けて、続けることである。一つのテーマを一年間、最大の時間をかけて追求すれば、相当なものが出来上がる。簡単な話だ。とにかく後回しにせず、自分の時間を全部つぎ込む覚悟をしてみてほしい。


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学生の手によるオープンキャンパス [ゼミ・教育]

 「極私的脳戸」で、数日前の記事「オープン・キャンパス」にコメントをいただいた。

大学の先生から見たオープンキャンパス。 ... ということなので、受験生諸氏は読みに行きなさい。実際、大学の先生はマジにあんたたちをちゃんと育てたいって考えてるものだ。

ということだが、実際には、大学の先生から見たオープンキャンパス「の宣伝」と言った方がいいかもしれない。僕はそこで、オープンキャンパスを宣伝している大学の広告を見て、悲しい思いをしたからだ。

 僕自身もオープンキャンパスで模擬授業をやる。しかし、これは大学の宣伝とは違う。僕は大学のブランドに左右されずに来て欲しい、見て欲しい。大学の中ではこんなことをやっているんだ、ということを見せたいと思っている。そのためには、大学の先生がどうしているか、ではなく、学生がどうしているかを学生自身で見せてもらおうと思っている。僕は進行役で、2年生、3年生、4年生が、どういうことに取り組んでいるかを、かれら自身の成果を発表してもらおうと思っている。

 学生自身の手で、ということでは、現在、学科のオフィシャルWebサイトをゼミで作成している。業者丸投げではない。それどころか、大学のサイト内に、学科のオフィシャルなページを全部学生(と僕)の手作りで作ってしまおうというプロジェクトだ。業者が請け負ったら200万円くらいは取られるだろう。しかも、僕らはHTML文法チェックで100点を取るものをつくる。現在の公式Webサイトでこれをクリアーできるところはほとんどないと言っていい。現在、8割方出来上がっているが、HTMLのページは60ページを越えている。かなり大きなサイトになっている。完成した暁には(オープンキャンパスに間に合わせるつもり。)ここでも、お披露目しよう。

 こういうことをやっている、ということを、受験生、高校生には見に来て欲しいのだ。


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大学導入科目も一段落 [ゼミ・教育]

高校から大学への転換をどうスムーズにするか、ということで、今年度から(昨年度は実験科目として開いていたが、)一年前期の必修として設けられた「大学での学びの発見」という授業を担当してきた。

 この授業については、4月頃に一度書いているが、探すのも面倒なので、もう一度趣旨を書いておこう。「学びの発見」というタイトルや、大学導入科目だというテーマから、大学でのノートの取り方や本の調べ方、レポートの書き方などの具体的な勉強の仕方を教える授業だと考えるかもしれないが、大谷大学でとり入れているのは、かなり違った構想のものである。

 高校までの勉強は、教科書に学ぶことが規定され、テストではどこまでその正解に近づくか、という「学習」が中心であった。それに対して、大学の学問には、正解は存在しない。前もって決まった答えはない。そもそも問題というか、テーマも与えられるものではない。大学では、自分で問題を考え、自分で調べ、自分で解決策を提示していく必要がある。答えがないから、何かに取り組んでも、直ぐには解決できないし、またいろいろな見方や考え方があり得る。

 それを「学びの発見」では、グループ学習をすることで、効率的に体験できるようにした。一人ではなかなか常識の枠は破れない。それを他の人とのコミュニケーションの中で色々と刺激し合うことで、一人では思いも付かなかったことを思いつくようになる。また思いつくだけではなく、それをさらに展開し発展させていくときにも、一人ではなく、みんなで意見を出し合いながら追求していく。一人ではなかなか最後までねばり強く追いかけることができないことでも、みんなでやれば、途中で挫折せずにやり遂げられる。

 具体的には、まずブレーンストーミングで、いろいろなアイデアをどんどん出せるように、常識の垣根を取り払う。と同時に、グループ内での親睦を深め、自由に意見を言えるような関係を作る。

 次に、拡散したアイデアを、一つ一つ紙片に書き、それらをグルーピングしながら見出しを付けていく。KJ法もどきである。これは、ただ単にアイデアを放言するだけではく、それを関係づけ、構造化し、まとめていく作業である。見出しは、何段階かの層をなす。かなり詳細な目次のようなものである。

 そして、それを元にレポートを書く。アウトラインを既にKJ法で作った上で、それに則った文章を作る練習である。ここに来て、学生はやっとブレーンストーミングからKJ法、そしてその構造化という作業が、レポートやひいては卒論につながることを理解する。

 従来の導入教育では、こういう本質的な思考方法の変革ではなく、学問のテクニックや工具書の知識、レポートを書かせても、日本語のチェックなど、非構造的なことを教えてきたように思う。そうでなければ、「知のなんとか」というような、学問上の新しい視点を紹介するような授業・講義だったように思う。まあ、東大のように放っておいても自分で研究をしていく学生が多ければそれでもいいのだろうが、普通は、レポートや卒論と言えば、どこかの誰かの文章をコピペして、見た目のお茶を濁すだけであることが多い。多少ましでも、引用と地の文の区別をする程度で、そこに展開される思考は、やはり紋切り型、あるいは思考でさえなく、調べたことを解説します、といった論文であることが多い。

 その枠を打ち破るには、たとえ稚拙でも自分の頭で考え、自分のアイデアで勝負する、という方法が体に染みついていなければならない。それは一年生のときからやって始めてうまくいく。実は僕は二年生以上のゼミなどでも同様のやり方を取り入れているが、結局うまく行くことは少ない。グループで自由に意見を出すように言っても、黙ったまま、何も新しいことが出てこない。すでに大学生の知性は、自由な発想が出来るような生き生きとしたものを失ってしまっている。

 とは言っても、これは目論見あるいは理想であって、現実にはそれほどうまくコトが運んでいるわけではない。とりわけ、グループ活動では、その中のメンバーによって、その効果は大きく変わる。一人でも真面目に取り組まない人がいたり、いつもぶちこわしの意見ばかりを言う人がいたりすると、その人だけではなく、グループ全員の学習意欲が低下し、したがって、学習効果はほとんど期待できなくなってしまう。感想を書かせると、おおよそ2割程度は、そのような不満を持っている。その他の8割が好意的に取り組んでくれているだけに、その2割の学生をどうするかは頭の痛い問題である。

 真面目に取り組まない学生について、これはこのようなグループ学習だけではなく、大学の授業全体に対しても大きなブレーキになっている。この問題はまた後日考えてみることにしよう。

 昨日で、この授業は修了した。学生にはそれぞれ感想を書いてもらった。その内容の紹介はまた明日にでもすることにしよう。


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オープン・キャンパス [ゼミ・教育]

 僕のいる大谷大学でも、ご多分にもれず、夏にオープン・キャンパスを開催する。僕も8月1日に相談会の席に座り、また、人文情報学科の模擬授業をする。

 昨年度も同様の模擬授業を担当したが、そもそも、この分かりづらい学科の内容を「人文」と「情報」の架け橋、という触れ込みで紹介するものだった。文系と理系の仲介役ということだ。文系のいいところと足りないところ、理系のいいところと足りないところを挙げ、それぞれの足りないところを補うために、その両方に理解のある仲介役が必要であり、そういうことができる人を育てるのが「人文+情報」学科の目指すところだ、という内容だった。

 この視点というか、そういう目標は、少なくとも僕の中では変わっていないし、それなりに分かりやすい説明だと思う。

 が、今年も同じことでは芸がない。今年は、僕は少し引っ込んで、学生にやってもらおうと思っている。題して、「人文情報学科の学生はこんなものを作っています。」ないしは「学生の制作品を実演・紹介します。」ということでお願いしたが、はたして採用してもらっているのだろうか。授業内容は、

 

 人文情報学科の中心となる授業「人文情報学演習」で、2年生、3年生、4年生がどのような作品を作っているかを、実際に学生に来てもらって実演・紹介します。  2年生の演習では、6、7名のグループに分かれて、パワーポイントによるプレゼンテーションを作ります。今回は「宮沢賢治と銀河鉄道の夜」という題の作品を実演します。  3年生・4年生の演習は8つのゼミに分かれます。私のゼミの3年生は、現在「人文情報学科公式Webサイト作成プロジェクト」に取り組んでいます。全体で50ページ以上のサイトを作りました。  4年生は卒論のための制作品を紹介します。私のゼミのテーマは「人の役に立つデジタル・ツールを作る」です。プログラミングを駆使したWebアプリケーションを作成している学生に、今作りつつある作品を紹介してもらいます。

といった授業説明を事務局の方に送っておいた。

さて、今日東急線に乗ったら、座っていて見える範囲の車両広告に、三つもの大学のオープンキャンパスの宣伝広告が貼ってあった。曰く「学生のサポート体制を強化」「改革」「どんな学部が体験してみよう」などなど、全部は覚えていないが、様々な言葉で受験生を誘うコピーが踊っていた。しかし、それらは、踊っていた、というほど、前向きなものではなく、むしろ大学の悲鳴のように聞こえた。大学は、学生を選抜するところではなく、手を変え品をかえ、学生の歓心を買おうとすることに汲々としているのが、痛々しかった。

 今、学生を集められる大学は、(ブランド校以外は、)就職率と資格と学生サポートの三つをアップさせること、と、企業としての大学は考えている。本当はどれも本質的なことでないのは、これまでの僕のブログでも言ってきたことだ。しかし、受験生は、少しでも安定した安全パイを選択しようとして、こういうことを売りにしている大学に足を向けてしまうだろう。大学で自分は何を学びたいか、それこそが結局はその学生の人格と知力をアップさせる源であるはずなのだが、大学生でさえ、そのことが分かっている人は少ないのに、受験生にそれを考えろ、というのは酷な話なのだろう。このブログだって、受験生はほとんど読んでいないだろうし。

 僕の模擬授業が、はたして功を奏するかどうかは怪しいが、大学で何を学んでいるか、を学生自身に語ってもらう(先生の側の謳い文句ではなく)ことが少しでも受験生に伝わって、志願してくれる人が増えることを、ちょっとは期待しておこう。


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プレゼンとは何だ? [ゼミ・教育]

プレゼンテーションをする、というと、みな大抵はPowerPointを使う。Macだったら、KeyNoteとという選択肢もあるが(Windowsに他があるのかどうかは知らないが。)、やはりPowerPointを使ってしまうだろう。Wordがめちゃめちゃなのとは違って、PowerPointは一応使えるソフトなので、MacでもPowerPointで十分だろう。

 で、どういう風にPowerPointを使うか、あるいは、どういうプレゼンテーションのやり方をするか、だが、これは色々なスタイルがあるので、今日のタイトルのように「これがプレゼンだ!」と言えるものがあるわけではない。

 たとえば、AppleのCEOスティーブ・ジョップスがスピーチで使う場合、ほとんどがスティーブの話で進行し、その話に会わせて、キーポイントだけが画面に現れる、というやり方がある。これができれば一番スマートだと思うのだが、そのためには話術がうまくないと場がもたない。話だけで人に訴えられる人が、それをサポートするように画面を使うと効果が大きいのは目に見えている。そういう気持ちでプレゼンを作る、というのも、実は大事なことだ。画面に全部を説明させようとせずに、説明は言葉でする。画面はそれを確認するため、しかも、ポイントだけに絞る、ということ。画面に頼らずに、話を進めること。これらはスティーブほどではなくても、ある程度一般的な心得だと思う。

 それよりも、もっと本質的なことがある。プレゼンテーションは、論理的なものではなく、人間の情動に訴える、心理的なものだということだ。人間の感情の奥底に響くことが大事なのだ。そして、そのためには、作っている人間が、そこでプレゼンテーションをしている内容に心の奥底から共感し、何らかの情動を感じていないといけないのだ。何も感じていないような事柄については、何もプレゼンする必要はないのである。

 情動は必ずしも感動とは限らないが、多くの場合は、感動を伝えることになるだろう。そうすると、自分で感動していないことについては、人を感動させることは難しいし、自分が感動しているならば、それを何とか人にも共有してもらいたいという気持ちで作れば、やはりその感動は人に伝わるものだ。

 一つのページの中にも、ドラマがなければいけないし、そのドラマをどのように演出したらいいかを考えなければならない。黙っていれば、そうなってしまう、箇条書きによる列挙など、愚の骨頂だ。箇条書きほど感動から遠いものはない。事実を列挙するのも、人を飽きさせる。事実の列挙は説明にしかならない。だが、PowerPointで説明されるほど退屈なものはない。

 事実の中にもドラマはあるはずであり、そのドラマを一つのページの中で、ページのなかのドラマとして再現してみせなければならない。だから、単に説明の順序とおりに、単純なアニメーションで一行一行現れてくる、というのではいけない。これは安直だ。ましてや、文字の出方のアニメーションに凝るなど、本質的なことに力をいれてはいけない。フォントや色などもしかり。そうではなく、演出に力をいれるべきだ。どのように図や写真を用い、それをどのタイミングで、どこに表示し、それに対して文字をどの程度、どのように配置し、それをどのタイミングで現れるようにするか、これを考えるべきである。

 学生にプレゼンを作らせると、作らされているから仕方がないのだが、単に調べてきたことを箇条書きに並べ、挿絵のように関連する図や写真を空いたところに貼り付ける、という安直なページを作ってくる。何故、何のために、プレゼンを作っているのか、ということが全く念頭にない証拠である。まず感動ありきで、それがなかったら、そもそもプレゼンテーションの動機がないのである。たとえ、授業の課題だとしても、そこに何か感動を見出して作らないと、作る意味がないのである。

 まあ、これはいわば精神論みたいなもので、具体的な作り方としては何の参考にもならない。しかし、技術はそんなに大したことなくても、感動を伝えることは、そのことに意識的になりさえすれば、可能である。そのことを忘れずにプレゼンテーションを作ってもらいたい。


就活に資格はいるか [ゼミ・教育]

 大学4年生の就活の最初の波は一段落したようだが、内定がまだもらえていない、あるいはまだ納得していない学生はこれからが正念場だ。一方、3年生は適性検査やエントリーの仕方、就職試験の模擬などに臨んでいることだろう。いずれにせよ、大学の後半2年間の大学教育は、就活のペースに左右されることになる。

 そのことの問題点については、かつて「大学四年生の心理」という記事で書いたことがある。今日は就活に臨む三年生の資格願望について言いたいことがある。

 全ての大学生がそうであるかどうかは分からないが、就活を心配している学生の多くは、何らかの資格をとろうとして、大学が用意している資格関係のセミナーや講座に参加し、秋に行われる資格試験に備えていることと思う。

 しかし、本当にそれが就活にとって、いいことなのだろうか。就活に関する情報誌などではあるいはその効用を説いているかもしれない。また就職した先輩なども、資格があることが有利だったと証言しているかもしれない。しかし、現実の学生を見ていると、それは本末転倒だという気がしてならない。「気がしてならない」というのは、色々な場合があり得るし、就活を外から見ている立場で強く主張するのが憚られるからであって、本音では、よほど余裕があるか、よほど大学の教育環境が悪い場合を除いては、大学の授業を差し置いて資格の勉強にいそしむべきではないと思う。

 これまで何度か書いてきたが、大学での学習や研究は、有効に受けようとするならば、決して楽なものではない。大学のカリキュラムは、学生の努力を前提に作られている。前にも書いたように、1時間の授業に対して、その倍の時間の予復習が前提とされているばかりではない。それぞれの授業は一週間に一コマしかない。一週間に一度90分程度の授業を受けただけでは、ほとんど何も身に付かない。一週間後には前の週にやったことは忘れてしまう。たとえ大筋は覚えていたとしても、あるいはノートをとっていて、それを見直して思い出したとしても、せいぜい覚えているのは半年後の期末の試験までだ。その間に夏休みの2ヶ月でも入ろうものなら、後期には前期の授業でやった大半のことは忘れてしまう。

 一つ一つの授業がそうであり、そのような授業が日に2コマから3コマ、週4日ほど続く。これらを全部こなすほど、学生の記憶と理解の容量は大きくない。それをどれだけ身に付けられるかは、やはり一方的に与えられる、受け身の勉強では無理な話だ。自分の関心から積極的に調べ、考えなければ、身に付くようなものではない。

 つまり、大学の授業、あるいは少なくとも自分の専門領域の授業について、きっちり自分のものにするには、相当の時間と労力が必要なのだ。そして、それだけの労力を掛ければ、単に与えられたものをこなすのとは違った力がつく。人間としても成長する。これは何にも代え難い経験である。

 それに対して資格の勉強というのは、大学受験までの勉強と同様に、一定の内容の基準があり、その範囲をどれだけ覚えるか、ということに費やされる。これは大学に入るまでに慣れ親しんできた勉強形態であり、単に内容が少し高度になっただけである。だから、勉強の仕方としては安心できる。全面的に講師や受験参考書に身を任せていればいいのだから。成果は一定の手続きをこなせば、ほぼ必ず得られるという安心感もある。企業も、形や数値に還元できない大学の勉強よりも、せめて資格を取る勉強をした人間を評価するのは、楽で安直な判断基準になる。無難な学生を取れるのである。

 ただ、現在の企業は無難な人材よりも、積極的に自分の考えを持ち、様々な現実に柔軟に対処していける人材を求めている。資格勉強をするような人材とは別の人材だと言っていい。

 単位のために、一週間一回の授業を無難にこなし、試験対策をしてとりあえず単位をとる。最終的には何を勉強するかではなく、卒業の資格、就活するための資格を取りたいだけような学生が多い。しかし、それでは、折角大学に入って身に付けられたはずの、自分の頭で考え、自分で切り開いていく勉強・研究の経験をしないことになる。

 企業がもし資格を要求するのだとしたら、そのような本当の学問を学生がしていないことを見越して、せめて数値化できる資格くらいはとっている学生を求めようとしているにすぎないだろう。つまり、学生は社会や企業から見くびられているのだ。企業が本当に欲しい人材など、ほとんどいない(つまり、大学を本当に有効に利用している学生がほとんどいない)ため、次善の策として、資格を要求しているにすぎない。

 資格取得に時間を使うくらいなら、卒論に時間をかけ、就活の面接でそのことを説得力をもって話できる方が、ずっと好感を持たれるだろう。誰もが同じ内容を勉強する資格を持っていても、面接のときに何の話題にもなりはしない。卒論で何をやろうとしているのかをきちんと話せる学生は、きっと就職もうまくいっているのではないかと思う。誰もがやっていることではなく、自分のオリジナルな発想で取り組んでいる卒論のことを聞きたいと人事の人は思っているに違いない。そういう学生は、稀少だから。


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公開・配布できる卒業制作を [ゼミ・教育]

 今年の四年生の卒業制作には、公開を目指しているものがいくつかある。大谷大学では、必ず論文を書かなくてはならず、何らかの作品を制作しただけでは卒業できない。しかし、僕のところでは、原則として何らかの作品を制作し、卒論自体は、その制作に関する考察をすることにしている。

 作るものは、ソフトウェアーやWebサイト、オンラインデータベース、初心者向け教材、eラーニング教材などだが、ゼミの基本コンセプト「人の役に立つものを作る」に基づいてユーザーインターフェースを重視し、使いやすくするにはどうしたらいいかを考えさせるようにしている。

 使っている技術は、PHPやPython、MySQL、XSLT、C言語などのプログラミング言語が主である。実は、これらの技術のどれか、ないしはいくつかを、より深く勉強するために卒業制作をやってもらっているのでもある。そのため、必ずしも高度なものを作らなくても、基本的な、典型的なものを作ることで、それぞれの技量に合わせて技術的な知識を身に付けられればいいと考えている。

 しかし、中には、単なる勉強のためではなく、実用的に使えるレベルのものを目指しているものもある。一般に公開して、配布できるところまでもっていけるかもしれない。

 まず、チベット学会て作成している研究文献目録のオンラインデータベースである。これは、昨年度の卒業制作をベースに、それを実際に使えるところまで改良し、完成させることを考えている。現在、チベット学会では、全部のデータを一つのページに収めてHTMLで公開しているが、文献数が増えてくれば、当然データベース化する方がいい。昨年度の卒業制作では、一応、入力、編集、検索、削除ができるところまでこぎ着けたが、それで時間切れとなった。それを参考にして、その基本機能までは割合簡単に辿り着くことができた。そこでその時点での問題点を改善するために、学会の事務局と相談しながら、必要な機能を追加して、秋には公開したいと思う。

 また、SQLのオンライン学習教材を作っている学生は、Web上でSQLコマンドを入力させ、それでデータベースを作らせながら、SQLの勉強を初歩から順にできるようなツールを作っている。フォームでSQLの式自体を送信し、それをPHPでデータベースに送り、その結果をユーザーに返す。その基本的な機能が動くことが確認できたので、次は、教材作りに入っている。どういう順序で説明や問題を出し、学習者の入力に対してどういう反応をするように作っていくかを考えている。エラー処理や、そもそもの入力が不正であることをどのように感知して対処するかが今後の課題になる。

 前にこのブログでも取り上げた、文系の論文・レポート用のXMLを設計し、それをTeXやHTMLのソースに変換するXSLTを開発している学生もいる。これも昨年度の、TeXからHTMLへの変換ツールを作った卒論を参考にしつつ、その反省の上に別のアプローチを試みているものである。

 オンラインのテキスト編集ツールでは、特に文系の古典的なテキストや翻訳などをオンラインで入力できるようにし、共同作業ができるようにすることを目指している。XMLを用いて、表示とデータを分離し、XSLTで変換するようにする。しかし、一方で検索などのためにはPHPでのスクリプト処理も必要となる。まだ現在はXSLTで変換する部分を作成しているが、その部分は意外に簡単にできそうだ。PHPの部分は、どういう機能を付け加えるかを考えて実装する。これもシンプルだが、研究者には便利なツールなので、完成すれば、実際に人の役に立つものになるだろう。

 今、僕も考えている初心者向け日本語スクリプト言語を、僕は単にPythonへのトランスレータとして作ろうとしてるいるが、これをコンパイラとして、字句解析や構文解析、コード生成(ただし、機械語までいけるかどうかは分からない。)まで一通り動くものを作る、というテーマの学生もいる。言語の仕様は、僕の考えているwythonと同じでいいかもしれない。本当は言語仕様も考えるとおもしろいのだが、コンパイラの勉強もあるので、時間的に難しい。むしろ、日本語をソースコードにしたコンパイラが果たして実現できるのかどうかが問題だ。いざとなれば、PythonやRubyなどで日本語の部分を前処理してからコンパイラに渡せばいいだろう。

 あと、オンラインでWebサイトを作成・編集するためのツール、これはこのブログでも何度か仕様の提案を述べてきた。どちらかというと、こういうものがあったら便利だと僕が思うものを作ってもらっていると言えるかもしれない。これは現状でも、少なくとも僕が使う分には十分に実用的に使えるものになってきている。ただ、ユーザー支援という部分、つまり面倒な処理を肩代わりしてくれる部分をどのくらい機能追加していくか、また競合するツール、ZopeとかXoopsとかSmarty、あるいはWikiからどのような機能を採用し、またどのように差別化していくか、が今後のテーマになる。

 まだ、みんな本格的に始めてから2ヶ月程度であり、今後、どこまで進めていけるか、楽しみだ。他の卒業制作も、まだ緒に就いたばかりなので、進め方によっては十分公開できるところまで持って行ける、あるいは来年度、学内で使用するのに耐えるものになる可能性がある。がんばってほしいと思う。


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いい影響が出ているかも [ゼミ・教育]

 三年生のゼミ生は、ゼミに入った当初から全員ブログを開設し、また授業は全部出席することを条件にしていた。それはほぼ9割以上実現できている。僕の授業は、サブゼミも含めて5コマあり、順繰りに課題や試験をしているので、毎週なにがしか授業時間以外に勉強しないといけない。しかも、演習はどんどん進んでしまうので、一瞬の隙も許されない。ゼミ、サブゼミ以外の授業では、アシスタントが二人ついて、演習の進み具合を見て回っている(見張っているという意味ではなく、躓いているところをフォローしている。)ので、着いて来れない学生も出ていない。

 ブログでは、授業の感想を書いてもらっているので、進み具合とか、理解の度合いとかが分かると同時に、それを介してゼミ生間の親睦もできているようだ。

 ゼミでは、グループで制作をしているし、課題毎にグループをくじで組み替えている。またグループでの作業では話し合いを重視している。それもゼミ生間のコミュニケーションを促進している。

 演習では、分からないところでも、アシスタントを呼ぶまでもないような場合は、回りの人と相談したり、教え合ったりしているようだ。

 こういう具合に、授業への取り組みとゼミ生間の親睦とが高水準に維持できているように思うのだが、これが他のゼミにもいい影響で伝わっているような気がする。他のゼミから演習に出ている学生も、ブログを始めた。内容も授業の感想や本の感想など、僕のところと同じようなタイプだ。僕のところのゼミとも親しいらしい。

 今日、その学生のゼミの先生と立ち話をしたが、「先生のところもそうかもしれませんが、今年の学生は、何かやる気があって、おもしろいんですよね」、というようなことをおっしゃっていた。学生の向上心、向学心が低下して、大学の教育が崩壊している場合が多い昨今、僕のところでは、ある意味、アナクロな真面目な教育ができているようだ。

 これでまだこの三年生のゼミは半年しかたっていない。これからどこまで育っていくのか楽しみだ。四年生の卒論に取り組んでいるゼミ生も、かなりいい線行っているが、それについては、また別の機会に書こう。


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