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中観思想・言語行為における存在 [チベット]

 前回の「チベット仏教の空と縁起」は、実は書き下ろしではなく、『チベットを知るための50章』の「中観思想」の章を書き直したものだった。本よりも多少表現を緩やかなものにしたが、それでも、ブログで読むには少し長い内容だった。

チベットを知るための50章

チベットを知るための50章

  • 作者: 石浜 裕美子
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2004/05
  • メディア: 単行本

 疑問の元は、ダライラマが、空でありながら存在する例として「私というものは、どこを探しても存在しないが、しかし、私は存在する」というようなことを繰り返し述べていることにある。何ら難しい言葉は使っていないし、論理的に込み入った議論をしているわけでもない。しかし、どこか釈然としない、何か誤魔化されたような、からかわれているような印象を受ける言い方である。

 これは一般的には「私は実体的なものとしては存在しないが、単なる存在としての私は存在する。」というように、「実体的存在←→単なる存在」という対比を述べているものと説明される。ツォンカパ以来、判で押したように、このように説明するのが伝統となっている。これはこれで、分かったような気になりはする。

 しかし、それでは「実体的存在」と「単なる存在」の違いは何か、と言うならば、実体的存在とは、何ものにも依存せずにそれ自体で存在しているものであり、単なる存在というのは、色々な原因が集まって偶々存在している仮の存在にすぎず、それだけで存在している実体的なものではない、だから原因がなくなれば、消えて亡くなってしまうような存在だ、と説明されたりする。そういう説明も伝統的なものなので、これまた、何となく納得してしまう。

 だが、ツォンカパは、このような縁起の考え方も無自性、つまり無実体性の考え方も、生ぬるいと批判した。これでは「真の中観思想」にはならない、釈尊のお考えを唯一正しく解釈して示したナーガールジュナの主張ではない、と考えた。

 それでは、「真の中観思想」とはどのようなものなのだろうか。

 実体がないということと、単なる存在であること、これは同じことを否定的および肯定的に表現しただけであり、別々の事態ではない。そして実体がないこと、あるいは一般に〜がないこと、というとき、それは〜が存在しないということを言いたいのではなく、〜がある、という誤った見方を否定しているのである、ということに注意しなければならない。

 「〜がない」というとき、それは〜がある、という想定が予め前提になっている。突然、〜がないと言うことはできない。〜があり得ると期待するからこそ、あるいは執着しているからこそ、「〜がない」と主張することに意味があるのである。

 実体がない、自性がないという場合にも、同様に、人々(か、中観思想以外を奉ずる人か)が、ものには実体がある、という見方をしていることが前提になっているのである。それでは、どういうふうに考えて、人々は、ものに実体があると思っているのだろうか。ものが他のものに依らないで存在している、と考えるからだろうか。しかし、そもそも「もの」が、他のものに依らずに存在していると思っている人はいないだろう。もちろん、神のような絶対者を考えれば、他のものに依らずに存在していると言えるかも知れない。しかし、ここで「他に依らない存在」と言っているのは、何も神のような絶対者のことを指しているわけではない。

 「ものに」実体がない、というように、主語になるのは一般的な存在者、つまり仏教用語で言えば、「一切法」である。「もの」すなわち「一切法」は、あらゆる存在を含んでいる。それらは我々の日常生活を構成し、さらに修行や悟りのような宗教的実践を構成している。これらの「もの」に実体がある、と考える場合、逆に、その主語である「もの」自体は、実体であるかどうかについて何も規定されていないことに注意しよう。それが「実体を持っている」という述語をとるときに始めて、それらの「もの」に実体性が与えられるのである。なぜならば、その同じ主語「もの」について、「実体がない」と表現することも可能であり、しかもその意味するところも、「実体がある」という場合と同じ程度に明瞭である。これは、「もの」自体に、それが実体であるかないかについての何の規定も予め含まれていないことを示している。

 この「もの」という主語は、様々な存在者の代表であり、それは机だったり、家だったり、猫だったり、人だったり、鳥だったり、などなど、我々の日常的、宗教的、社会的生活に現れる全ての存在者について同じように「実体がある」とも「実体がない」とも、さらには、その他あらゆる文が作られ、会話が行われ、コミュニケーションが行われている。これらの言語表現は、実際に言葉にしてそれを述べなくても、我々の認識はこのような言語表現の型に嵌められて成立しているのである。ちょっと自省してみれば、思い当たることだろう。

 このように、様々な主語について、様々な言語表現、命題が作られることで、我々の生活は規制され、秩序付けられている。そのような命題の中で、正しいものと正しくないものがあるのは自然なことである。正しいものとは、その主張が、他の主張と抵触せず、またその主張が期待している効果が、期待通りに得られるとき、その命題は正しいものと考えられ、そうでないときは正しくないものと考えられる。

 正しいか正しくないかについても、実は、他の言語表現と突き合わせてみることで判明するものなのである。他の命題との相互関連の中で妥当性が決定するし、他の命題と抵触するならば、その主張は正しくないと考えられる。

 このとき、あたかも言葉は人工的なもので、客観的正しさは、そういう人工的なものではなく、その言葉が指している客観的な事実に照らして決定される、と考えることもできる。それは、言語表現の正しさは、言語外の事実に支えられている、と考えていることになる。しかし、ダライラマが言うように、その言葉に対応する言語外の存在を探しても、実はそのようなものが客観的に存在しているわけではない。我々があると思っているものは、日常生活・宗教生活・社会生活・文化的生活を構成する様々な命題の編み目の中で構成されたものであって、そのような命題がなければ存在してはいないようなものなのである。

 「私」について、我々はいくらでも様々な命題を作ることができる。それも有意味が命題をいくらでも生み出せる。「私はこれこれだ」「私はこうした」「私はこれが好きだ」「私は・・・だ」などなど。しかし、それは私というものが言語外にあることを、どれも意味してはいない。というか、そういう命題を作るより先に私というものが予め存在している、と考えることはできないし、そういうものを示そうとしても、示すことはできない。私について何か言えば、それは再び私についての命題になってしまうからであり、命題を作らずに、私という客観的な存在を検討して命題の妥当性を検証しようとしても、そういうもので命題の妥当性が保証されるようなものは見つからないのである。

 このような命題の網の目の中で、「私は存在している」という命題は、何も特権的なものではない。私について言いうること、それも正しく述べられることのうちの一つにすぎない。ダライラマが「それでも、私は存在している、ということは否定されない」と言うとき、そこで意味しているのは、そういうことなのだ。このような存在を、仏教哲学的には「言説有(ごんぜつう)」と呼ぶ。「言説」とは日常的な言語的行為のことを指す。そういう言語行為の中で「存在している」と言いうるものを「言説有」と呼ぶ。それに対して、実体として存在しているものは「勝義有(しょうぎう)」、すなわち「本当の意味で存在しているもの」と呼ぶが、「本当の意味で」とは、言語的な行為の中で存在していると言えるだけではなく、それよりも先に、言語的な意識に依存することなく、それ自体で存在しているようなものを指しているのである。

 またまた長くなってしまった。前回のややこしい議論を補足しようとして書き出したのだが、また別の側面からややこしい説明を重ねてしまったのかもしれない。まだ、この周辺には、もっと説明しておきたい考え方がいろいろある。ダライラマはこれらを体で覚えていて、当然のこととして伝統的な議論の仕方で説明してしまうが、我々のような、その伝統の外にいる人間にとっては、もう少し丁寧に、別の視点から捉え直さないと、腑に落ちないものになってしまう。あるいはダライラマと同じことを繰り返す「小ダライラマ」にならざるを得なくなってしまう。

 今後も、時間があるときに少しずつ、その辺りの説明を追加していきたいと思う。


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antoon

『ダライラマの仏教哲学講義』を1週間前に図書館からお借りして読んでいます。一通り読みとおしても、何度もパラパラと読み返すと面白いです。是非購入してそばにおいておきたいです。

一切の命あるものに利益をもたらそう!という利他的精神を生じる;大乗の中に入るための修行の実践について、経典に基づく唯識のアプローチによるものと中観帰謬論証派の観点に基づく修行法が説明されているように思いますが、最終的立場としては中観帰謬論証派の哲学を中心に据えるという前提の下に、それが修行者の心に適うものであれば実践する意味があるというように広くとらえられているように感じました。大乗の海(というものがあるかどうかは分かりませんが)に繰り出そうとするときに、乗り込む船がどんな構造をしていて何ノットで進むか、耐久性はどうか、などということに種々あるにせよ、帆を張り舵を取る者たちによって実際に航海することができる船であれば、その船は良い船であるということでしょうか(もって回ったような表現ですが)。そのことを理解するために自分で考えたり実践してみます。新たな生に続く持続的な心相続ということが、帰謬派の捉える言説的な私においてどのように説明されるのかということも深く考察したいです。心相続も慣習的な言説ということなのでしょうか。

とはいうものの、その前に今度は石濱先生による書籍にも目を通してみようっと。ちょっと勢いに任せて書きすぎました・・・冷静にゆっくりと地道に行きます。
by antoon (2005-08-19 21:00) 

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