自己責任と普遍的責任--ダライラマの思想 [チベット]
ダライラマは日頃からuniversal responsibilityという言葉をよく使う。漢訳仏教語では「増上意楽(ぞうじょういぎょう)」と言われるものに相当する。一切衆生に対して限りない慈悲の心を抱くことだが、これをダライラマは「普遍的責任」とでも訳せる言葉で表現している。
ダライラマによれば、われわれの行いは全てのことに関わっている。全ての存在が相互に依存し合い、関係し合っている以上、何らかの行動をすれば、その影響は全てのものに及ぶ。そのように意識して行動することを「普遍的責任」と呼んでいる。抽象的に相互依存と言っているだけではなく、現代のグローバル化した世界においては、自分だけのためにした行為であっても、その影響は直接間接に地球上の全てに関わっていくことになる。したがって、我々の行為に、そういう全てのものに対する責任が生じる。
この普遍的責任universal responsibilityという言葉は、最近、よく使われるpersonal responsibility、すなわち「自己責任」という言葉と対比して用いられている、と考えると、もっと分かりやすい。「自己責任」とは何か。自分の行った行為の責任は、他人のせいにせず、自分で引き受ける、ということであり、またそう決意して行為をすることでもある。
この自己責任(personalな責任)と対比すると、普遍的責任(universalな責任)は、自らの行為の責任が全ての人、あらゆる生き物に対してあること、そしてそのように意識して行為することを意味するだろう。
ダライラマによれば、それは同時に、全てのものの権利を自分の権利と同じように認め、全てのものが幸福を求め、苦しみを避けようとしていることを、自分がそうしたいと望んでいるのと同じだけ尊重することにもつながる。自分の利益が他の全ての人の利益と切り離されて別個に追求できるものではなく、世界は一つであるのだから、自分の利益がほかの全ての人の利益になり、あるいは少なくとも少しでも人を害することないように行為するべきである。
もう少し穏やかな言い方をすれば、われわれは何らかの行為をするときに、他の全ての人のことを配慮して行為をするよう努力する、ということである。これがuniversalな責任を引き受けつつ行為をすることである。
趣旨は分かるが、実際にはそんなことはできないだろう、と思うかも知れない。しかし、できないのだからやろうとしなくていいし、そういう心を育てる必要もない、ということにはならないだろう。確かに完璧に実現することは難しい。他の全ての人のことを広く配慮することは、一朝一夕にできることではない。しかし、それはいわば彼方にある目標、仏陀の境地であって、それがあるからこそ、われわれは出来る範囲でそれに近づく努力をしていくことができるのだ。
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