文系における情報処理 [ゼミ・教育]
僕は文学部の情報処理関連学科に所属している。文系における情報処理教育の意味について、少し書いておきたい。
ゼミ生が就活でIT関連の企業を回っていると、筆記試験で数学的な問題が出され、それがほとんどできない、という話を聞く。まあ、就職試験とか面接とかは、本当に必要な技術なり知識なり能力なりを適切に判断するためにやっているとは思えないから、気にしなくていいとは思うが、それでは、情報処理関係の学科は大抵、工学部などの理系に属しているので、文学部で情報処理というのは規格外れということになるのだろう。
しかし、社会というものは、文系の原理で動いているのではないだろうか。確かに機械相手のメーカーの社員ならば、理系の知識と技術が必要だが、人間相手の仕事、人間のためのプログラムだったら、理科系よりも文系の視点が必要である、あるいは少なくとも数学的な知識は必要ない(せいぜい、四則演算が自由にできればいい。)のではないか。
文系と理系の違いは、文系は「何をすればいいかが分かっているが、どうしたらいいかは分からない」のに対し、理系は「どのようにしたらいいかは分かるが、何をしたらいいかは分からない」ということにある。大体、僕らの必要としていることで理系のプログラマと話をすると、かれらは、「何をしたらいいかを言ってくれたら、それをプログラムしてあげるよ」と言う。あるいは「完全に仕様を書いてくれたら、プログラムは自分に任せてくれ」と言う。
逆に言うと、理系は技術はあるが、それをどう使ったらいいか分からないのだ。もちろん、これは極論である。理系でもちゃんと、何をしたらいいか分かっている人はいる。しかし、それは「理系である」が故に分かっているのではなく、その人が実は文系的な視点を持っている、あるいは持とうと努力しているが故に、分かっているにすぎない。
チベット語のシステムを作るとき、元アップルのプログラマと一緒に仕事をしたが、かれは最初、文系の我々がチベット語の構造と規則について、完全に記述してくれたら、プログラムはしてあげよう、というスタンスでいた。しかし、僕たちと共同で作業をしているうちに、それが完全に甘かったことを思い知ることになる。彼は、結局、チベット語の勉強をし、自ら古い木版のチベット文字版本を調査し、文法を調べ、色々な文字の組み合わせの可能性を調査し、規則を見出し、それに基づいてプログラムを作ったのである。
僕は、フォントを作りもしたが、ソートのプログラムやローマ字とチベット文字の変換プログラムを作ったりもした。
つまり、理系が文系の方に足をつっこみ、文系が理系の方に足をつっこみ、両者の交差点で仕事をしたのである。理系のことが分かる文系、文系のことが分かる理系というのは、本当は必要な人材なのだと思う。
小さい会社が自前でプログラム開発をできないとき、外注することになるが、もしその会社に誰もコンピュータに詳しい人がいなかったら、発注は丸投げになってしまうだろう。これはソフト会社のいいカモである。ぼったくられる。あるいはソフト会社はそのつもりはなくても、その会社に何が必要かを、その会社の内容に即しては考えられないので、一般的な対処ですますことになる。そうやって作られたソフトは決して効率のいいものではない。
そこで、その会社に、自分でシステム開発まではやらなくても、ソフト会社が何をするかを理解している人間がいれば、無駄な発注はしないですむ。何が必要で、何を依頼すればいいかが分かるからだ。
ソフト会社の方でもクライアントが何を必要としているかが分かる人間がいれば、強みになるだろう。単にできあいのソフトを押しつけるのではなく、クライアントの状況を理解し、あるいはクライアント自身も気付かなかったことを掘り起こせる人物が必要なのだ。本当はSEというのはそういう仕事のはずだが、職種はあっても、そういう人材を育てようという体制は、大学の中には存在しないのではないか。
文系における情報処理教育(の一部)には、以上のような人材を育てられる、という利点があると思う。
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