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難しくとも考える価値がある [仏教]

 今年度の前期、大学院と学部の共通の授業で「中・後期インド仏教思想」という講義を受け持っている。講読なら楽なのだが、講義となると話す内容を全部組み立てないといけない。そこで負担のないやり方でよければ、ということで引き受けた。僕にとって負担無く、かつやる気もでるものとして、モークシャーカラグプタというインド仏教最後期の人の書いた仏教論理学の綱要書『論理のことば』(梶山雄一訳)を、最初から丁寧に一節一節解説していくことにした。

 この訳本は、比較的正確であり、もともと学術的業績としての英訳をもとにご本人が和訳したものである。定評もある。また、インド仏教最後の時期ということもあり、コンパクトな中にそれまで戦われてきた様々な議論の要約が詰め込まれているということもあって、インドの仏教論理学の入門書としてもっとも幅広いテーマを扱っている良書である。

 しかし、いくら正確で分かり易い訳とは言え、日本語だけを読んでいたのでは理解できない箇所がたくさんある。しかも、分かる箇所であっても、初めて仏教論理学に触れる初心者が日本語訳だけを頼りに理解するのは難しい。そこで、手ほどきをしてあげる必要がある。そんな授業にしようと思った。

 当初大学院の授業と言われていたが、蓋を開けてみたら、学部との共通で、しかも受講生40名のうち、大学院生は数人、あとは全部学部生という状態だった。そもそも学部生と大学院生を一緒に教えるには無理がある。もし共通授業であれば、通常は大学院生に合わせた授業で、学部生はそれを分からないところがあっても、学問の現場を目の当たりにするという意味で参加する、という感じで行われることが多い。

 僕もそのレベルで授業を始めた。といっても、本当に大学院レベルと言うわけではなく、そもそも仏教論理学の初心者という点では大学院生も学部生も変わらない。だから全ての概念を一から説明していくという手法は両者に通じるはずのものである。大学院生と学部生の違いは、理解力と基礎知識の差である。

 その他のインド仏教の哲学をある程度知っているかどうかという点でも、違いは大きい。学部生は唯識も中観もなにも知らない。一方大学院生はその位のことは分かっている、あるいはこれまで読んだり学んだりした経験がある。そういうものなしに、いきなら、全てが新しい概念で構成されている仏教論理学の本を読んでも、着いていくのさえ危ぶまれる。

 しかし、仏教論理学は、中・後期以降のインド仏教のあらゆる側面に浸透していて、そういう概念の枠組みの中で仏教思想が語られることになる。また純粋な仏教論理学に限っても、膨大な著作が残されている。さらにインド仏教を受け継いだチベット仏教では、僧院に入門した若いお坊さんは、まず最初にこの論理学を徹底的に学んでから他の分野の勉強に進む。つまり、仏教論理学の重要性は明らかなのである。

 問題は難しいことは敬遠するという昨今の大学生の傾向である。学生による授業評価のアンケートをとることが全学的に決まっている。いろいろな評価項目があったあと、最後に感想を書く欄がある。7月に入って実施したアンケートの回答をみていると、学部生からは「難しすぎる。何を言っているのかさっぱりわからない。こんな授業に何の意味があるのか分からない。時間の無駄だと感じる。トークをもっと工夫した方がいい。話が早すぎて分からない」などの否定的な感想ばかりであった。別に書かなくてもいい欄なので、わざわざそんなことを書くのは、よほど腹が立っていたのだろう。

 現代の大学生の勉強(学問ではない、そこまで行っていない。)は、世間が思っているよりも遙かに低い。学問的な水準の話をできるところはほとんど無い。それをできるだけ消化し、とろとろになるまで煮て、おじやくらいにして、ふうふうしながら少しだけ口に運ぶ、そんな状態である。

 大学で勉強してきました、という顔で社会に出ても、それがどれだけの勉強になっているのかはとても怪しいのである。世間が期待するレベルの勉強は大学院に行かないとできないのである。そこで、大学はもはや学問の場ではなく、サービス業と化している。学生サービスが第一に叫ばれ、学生を飽きさせずにどう導くかの技術、要するに教育能力が問われるようになっている。それが社会的通念ならば、社会も大学に学問的な授業を期待していないということにもなるだろう。

 しかし、問題は、学問の水準を伝えられないというだけではない。学生は難しいとそれも敬遠するようになる。先ほどの感想では、難しすぎる、時間の無駄、もっと工夫しろ、ということになるのだが、もしそうならば、彼らにとって、重要であることを学ぶよりも、自分を分からせてくれるものだけを提供しろと言っているようなものである。かれらには過去の人たちが時間をかけ努力をして築いてきた膨大な文献も、難しければ、何の価値もない、それは「自分たちにとって重要ではない」というだけ、学ぶ必要がないと考えてしまうことである。

 たとえ彼らの理解力できないとしても、それは人間が考えて残した思考の膨大な記録であり、その前に立って、かれらの「わかんねー」にどれほどの意味があるのか、考えたことがあるだろうか。しかも、初心者であることを考慮して、和訳を使い、その和訳でも難しいだろうから、一々を説明している。より難しく、学問的に説明しているのではなく、図を使いながら、より分かりやすい表現で説明している。それでも分からないのであれば授業を受ける資格はないのである。

 哲学などの抽象的な分野の学問には向き不向きが厳然としてある。昨今はそういう哲学よりも、アンケートや意識調査で傾向が分かるような具象的な社会学のようなテーマの方に、あるいは自分の気持ちが分析できる心理学のような分野の方に人気がある。世の中の思想的な本を書いている人たちを見ても、思想家や哲学者はほとんどいない。文化人類学、社会学、政治学、宗教学、心理学者、理科系の学者、あとは評論家、そんなものである。

 具象的なものにしか馴染んでいない人にとって、認識や存在や論理や必然性などといった議論を、独自の概念を用いて展開している仏教論理学が縁遠いものであるのは明かである。だから、授業にそういうテーマを選ぶべきではない、というのが彼らの言い分であり、また社会の言い分でもあるだろう。

 だが、僕にはそんなとろとろに薄められたものをスプーンで飲ませるようなことをする気持ちにはなれない。考える価値のあることだから考える。難しいからこそ考える。仏教思想というのは、そもそもそういうレベルのものだからである。
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