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ダライラマ法王とチベット研究者の茶話会 [チベット]

 11月19日、ダライラマ法王とチベット研究者の茶話会が開かれた。50名という限られた人数のため、一般公開されたものではなかった。口コミで声をかけたが、測ったように50名が集まり、用意された席がちょうど一杯になった。

 法王は、午前中は増上寺での法要があり、午後には突然謁見の予定も入って、茶話会の部屋にいらっしゃったのは、予定よりも30分遅れであった。最初に法王から簡単なスピーチをいただいた後は、研究者との質疑応答に移った。予定では1時間ということであったが、終わってみれば、1時間30分以上、質疑応答をしていただいた。そのあとは法王を囲んで集合写真を撮影し会は4時すぎに終了した。

 茶話会そのものの報告は「白雪姫と7人の小坊主たち」でアップされるので、そちらを見ていただくこととして、僕がお聞きしたことについてここで報告と解説をしておこう。

 法王には、ツォンカパの中観思想における rang gi mtshan nyid kyis grub pa という概念の意味をお聞きしたいと思っていた。研究者との質疑応答であるので、時間の節約のため英語は通訳なしになりそうということだったので、僕は予め英語で三つの質問を用意していった。

 ツォンカパの最終的な立場である中観帰謬論証派の説では、世俗においても、rang gi mtshan nyid kyis grub pa なものは存在しない。それに対して、中観自立論証派は、勝義においては rang gi mtshan nyid kyis grub pa なものは存在しないが、世俗においては存在すると主張する。それ以外の学派は、勝義においてもそれがあると主張する。それゆえ、この rang gi mtshan nyid kyis grub pa なものの存在を、世俗においても勝義においても否定することが、中観帰謬論証派を他の流派から区別する根本的な相違点の一つということになる。

 そもそもこの概念の意味が問題なので、ここでそれを日本語に訳すわけにはいかないが、ひとまず直訳するならば、「自らの特質によって成立しているもの」と訳すことができる。ただし、これは僕の解釈に基づく訳であって、一般には「自相によって成立しているもの」あるいは「自相として成立しているもの」さらには「本質的に実在しているもの」という意訳や「自相成立」という省略した訳も行われている。

 まず、rang gi mtshan nyid を「自相」と訳すことには問題がある。なぜならば、「自相」という訳語は、論理学で直接知覚の対象を意味する svalakṣaṇa の訳語として用いられ、これはチベット語で rang mtshan という省略された訳語が当てられる。ツォンカパ自身は、rang gi mtshan nyid が、論理学で言う rang mtshan「自相」とは別の意味であると断っている。論理学で言う「自相」の定義については議論すべきことが多いが、少なくともツォンカパは、それを「結果を生み出す能力」と説明していた。とするならば、論理学で言う「自相」と異なる rang gi mtshan nyid とはいかなるものか。また、rang gi mtshan nyid kyis という具格の意味は何か。一方、ツォンカパも後代のゲルク派の学僧も、rang msthan du grub pa という、処格を用いた言い方もしているが、それは同じ意味なのか。こう言った問題に対して、僕自身は一定の解釈を持っている。それが妥当であるかどうかを法王にお聞きしたかったのである。

 僕は次のような三つの質問を用意した。

1. rang gi mtshan nyid というときの mtshan nyid の意味は何でしょうか。私はこれは rgyu mtshan「理由、根拠」の意味ではないかと思いますが、いかがでしょうか。

2. rang gi mtshan nyid kyis の kyis という具格助詞の意味は何でしょうか。具格助詞としては「〜によって」という意味と「〜として」という二つの意味が考えられますが、私はこれを「〜によって la brten nas」という意味ではないかと思います。いかがでしょうか。

3. ツォンカパは時々、rang mtshan du grub pa というように、具格ではなく du という処格助詞を使った表現を用いることがありますが、これは rang gi mtshan nyid kyis grub pa と同じ意味だと考えていいのでしょうか。もしそうならば、du という処格助詞の意味は「〜として」ではなく、「〜において、〜を基盤として」というような意味になると考えられないでしょうか。

 さて、僕の質問は英語だったが、それに対して法王はチベット語でお答えになった。内容上チベット語の方が正確に話せるからである。以下、その内容を聞き取れた範囲で報告しよう。(仏教用語の方ははっきりと聞こえたのでいいが、文末の語尾の方は声が小さくなり聞き取れないことが多かったので、その辺りは不正確である。)

mtshan nyid、rang gi mtshan nyid、rang bzhin、rang gi ngo bo は同じ意味である。だから、rang gi mtshan nyid kyis grub pa は rang gi ngo bos grub pa とも言われる。あるいは、rang gi mtshan nyid kyis grub pa と ngo bo nyid kyis grub pa も同じ意味になる。

量子力学の分野で物質の ngo bo nyid を求めて物質を細かく分解していくと微細な微粒子になり、さらにそれを分解していくと極めて微細な素粒子のようなものになるが、そこにその物質の ngo bo nyid を探しても、どこにも見つけることができない。それゆえ、物質には ngo bo nyid がないということが分かる。

このように対象(yul)は、ngo bo nyid kyis grub pa ではないけれども、しかし存在していない(med pa )のかと言うと、存在していないと言うことはできない。存在しないと言えば、ニヒリズムに陥ってしまう。それならば、ngo bo nyid kyis ma grub pa である対象は、どのようにあるのかと言えば、bsten nas btags pa であると言われる。

仏教では、対象は、yul gyi ngos nas grub pa ではない、つまり rang gi mtshan nyid kyis grub pa ではないけれども、存在しないわけではない。それならばどうかと言えば、brten nas btags pa であると言う。つまり、yul gi ngos nas ma grub であり、brten nas btags tu grub pa であると言われるのである。言い換えれば、対象は brten nas btags tu grub pa であるから、ngo bo nyis kyis grub pa ではなく、rang mtshan gyis grub pa ではないのである。

ブッダパーリタは、「ngo bo nyid kyis grub pa であるならば、brten nas btags pa ではない。」とおっしゃっている。(逆にすれば、brten nas btags pa であるが故に、ngo bo nyid kyis ma grub pa だということであろう。ただし、この通りの言葉はブッダパーリタのテキストには見つからない。)

 僕の質問の意図は必ずしも正確に法王に伝わったわけではなかったし、また法王のお答えは、法王がしばしば話される、全てのものは無自性でありながら、依って施設されただけの存在であるという、言わば、ものごとの正しいあり方を説明することに重点が置かれていたとも言える。僕の質問は、この最初の一つだけで時間をとってしまったので、2番目と3番目の質問はしないことにした。

 また、この、同じような概念が繰り返し述べられているようなお話の中からも、僕のお聞きしたかった内容の大部分を読み取ることができたように思われて、他の質問を取り下げたのでもある。

 以下、法王の言葉を僕なりに解釈し、かつコンテキストを含めて解説してみよう。

  ・rang gi mtshan nyid kyis grub pa
  ・rang bzhin gyis grub pa
  ・rang gi ngo bos grub pa

この三つの表現が同じ意味であることは、ツォンカパ自身が明言している。法王はさらに

  ・ngo bo nyid kyis grub pa

も同じ意味であるとつけ加えられた。ツォンカパは、上の三つと並べてはいないが、この表現も別の箇所で用いているし、内容上も同義であることは明らかである。

 これらの表現に共通なのは、「A-具格助詞 grub pa 」という形であり、これらが同じ意味であると言うことは、このAに当たるものが同じ意味であることを示している。僕のもともとの質問はmtshan nyid だけの意味をお伺いするものであったが、法王はそれはすぐに rang gi mtshan nyid と言い換えられて、それらが rang bzhin や rang gi ngo bo、ngo bo nyid と同じ意味のものだとお答えになっている。

 これらは探し求めても見つからないので、否定されるべきものである。それに対比されるのが brten nas btags pa、あるいは brten nas btags tu grub pa である。この後者の言い方は、目にしたことはないが、A-kyis grub pa と対応させて考えれば納得のいく表現である。

 注意しなければならないのは、ここで否定されたり肯定されたりしているのは、みな述語であるということである。すなわち、これらには常に主語が想定される。法王は、yul、すなわち「対象(古い漢訳では対境)」を主語として言及される。確かに対象に違いはないが、対象一般というわけではなく、むしろ brten nas btags pa の意味を加味して考えて、「名前で区別されているところの各々のもの」と考えた方が分かりやすい。

 要するに、我々にとって名付けられている各々のものが、果たして、rang gi ngo bos grub pa なものなのか、それとも brten nas btags tu grub pa なものなのかが問われているのである。その名付けられものの rang gi ngo bo (= rang gi mtshan nyid, rang bzhin) を探し求めてもどこにも特定できるものが見つからないので、それらは rang gi ngo bos grub pa なものではないことになるのである。

 この rang gi mtshan nyid kyis grub pa あるいは rang gi ngo bos grub pa を、法王は「対象の方から成立している(yul gi ngos nas grub pa)」と言い換えられた。「対象の方(あるいは対象の側)から成立している」とは、brten nas btags tu grub pa と対比して考えれば、要するに、その対象がそれとして成立するための起源が、対象自身の方にあるのか、それとも我々の分別知による施設の働きにあるのかという違いである。

 僕はそういう意味での mtshan nyid を、対象をその対象たらしめている根拠(rgyu mtshan)と考えていたのだが、法王はその「根拠」という言い方に同意はされなかった。「根拠」というよりも、そのものをそのものたらしめている本性・本質のことだとお考えだったのではないかと思う。ただし安易に「本質」と訳して済ませられるものではない。なぜならば、日本語の「本質」の意味自体が曖昧だからである。それは、その対象がそのようなものとして成立するのが対象自身の方でのことなのか、それともわれわれの意識によって名付けられてのことであるかの違いを前提として、前者を「本質」とでも言うしかないということなのである。

 さて、brten nas btags pa「依って施設されたもの」という場合、「何に」依って施設されたのかは明言されていないが、これを、物事は全て原因に依存して存在しているのであって、独立自存の存在ではない、という意味に理解してはならない。rang gi ngo bos grub pa は、他のものに依らずに存在している(成立している)という意味ではない。施設されるのは、そのもの以外の原因に依って成立しているからではないのである。そのものがそのものであることが、様々な因果関係や諸条件の中で、それを把握するものの意識によってそのように考えられ、名付けられているだけのものであるだということである。rang gi ngo bos grub pa なものであっても、他の原因によって生起するものであることには変わりはない。他の原因に依って生起したから施設され名付けられたわけでもない。

 たとえば、この目の前にある机が「机としてあること」が、その机自身の本質によって成立しているというのが rang gi ngo bos grub pa、rang gi mtshan nyid kyis grub pa の意味であるのに対し、様々な因果関係や効用、諸条件、諸状況の中でそれをわれわれが「机」と見なし、また「机」と呼んでいるにすぎない、というのが brten nas btags tu grub pa の意味である。いずれの場合も、その机が、材木やのこぎり、制作者などの諸原因によって生じたもの(すなわち縁起したもの)であることに違いはない。

 これはたとえば ngo bo nyid や rang gi ngo bo を「本質」という日本語に置き換えだだけで理解できることではない。チベット語で議論し、しかもテキストについての読解を前提として初めて分かることである。僕の質問は、このようなオタクな内容だったので(もちろん、ツォンカパの中観思想の根本的な理解に関わることであるので、重要なことであると僕は思うが)、他の方々には(特に通訳を通じてでは)十分に理解されないことであったに違いない。

 もう一つ、別の方の質問に対する法王のお答えの中で、目から鱗が落ちたお話があった。必ずしも質問者の意図に沿ったお答えではなかった(質問者がもっと一般的なことを聞いているのに対し、法王は仏教の理論的な視点からお話をされたので、話題が噛み合っていなかった。)が、その中で法王は、仏教の三つの基本テーマである gzhi、lam、'bras bu「土台、道、結果」に言及された。lamは「修行道」のことであり、その結果('bras bu)は基本的には修行の結果達成される境地、究極的には仏果のことであり、修行をして結果を得るための基礎になる存在論がgzhi「土台」である。この「土台」の説明には、仏教の認識論的、存在論的諸概念が取り上げられるが、そこに必ず二諦(勝義諦と世俗諦)の設定も説明される。僕は単にそういうものだ、と思っていたのだが、法王の説明はそうではなかった。

 「結果」としての仏果とは仏の身体を得ることであり、この仏の身体には法身と色身という二つがある。法身とは悟りの智慧とその対象である空性そのものを指し、色身とは衆生を済度するための色形あるお体である。そのような「結果」を得るための修行道である「道」には、法身を実現するための智慧の修行と、色身を実現するための方便あるいは福徳を貯めていく修行がある。そして、その「土台」すなわち基盤となる物事のあり方は、智慧の対象である「勝義諦」と方便を駆使するための土台になる「世俗諦」という二諦にまとめられる。このように土台、道、結果という三つのテーマは、それぞれ勝義諦→智慧→法身という系列と世俗諦→方便(福徳)→色身という二つの系列からなっている。

 これまで僕は、相互の関連など考えずに、単に土台と道と結果という三つの観点から仏教の理論体系が説明されていると考えていたのであったが、この三つの観点が有機的に関係し、大乗仏教の根本的な二つの系列を述べていることに、初めて気付いたのであった。言われてみればそれは当然な上にも当然のことである。しかし、おそらくそのことに感じ入ったのは、その場にいる人たちの中で僕だけだったのではないかと思う(そんなことは言われるまでも知っている、という人もいたかもしれないが)。

 釈尊は、同じ一つの言語で説法されるが、それは聞く人によって別の言葉で聞こえると言う。今回の法王のお話も、そんな趣があったのかもしれない。
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