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チベット仏教研究のススメ公開 [チベット]

 2012年2月17日、駒澤大学大学院仏教学研究会の公開講演会で「チベット仏教研究のススメ」という、やや軽薄なタイトルで講演をしたことは、既に記した通りである。

 それを研究会の大学院生が文字に起こしてくれ、それに多少手を加えたものが、このほど『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第45号に掲載された。話した内容を文字にしたのはこれが初めてだったが、しかし、文字にしてみると、文法は乱れ、話は脱線し、前後照応せず、ところによっては意味不明な表現になったりと、口頭だから勢いで分かってしまうよ、と言うわけにもいかない代物だった。

 3校くらいまで大幅に赤字を入れることになり、編集の大学院生たちには申し訳ないことをした。それも、あまり直してしまうと、講演を記録したものにならないので、ある程度は、その場の乗りで話したことと諦め、何だか曖昧な部分も残されている。

 しかも、タイトルが軽薄であるのに、内容はチベット語文献を読んだことのあるのを前提とするようなオタクな話であった。これもまた、会員諸氏には申し訳ないことをしたと思う。

 ただ、チベット仏教研究がインド仏教研究にこのように貢献できます、という点は、ある程度伝わったらしいことを、後で駒澤の先生から伺った。

 せっかく、チベット仏教研究を勧める内容なので、より多くの方に読んでほしいと思い、これもまた無断で公開する。問題がありましたから、ご一報下さい。>関係者各位
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チベット文献資料の歴史 [チベット]

 昨年度末に、大谷大学の図書館の情報誌『書香』29号に、大学所蔵のチベット語文献PDFについて短い紹介記事を書いた。

 チベット語を読める人のために書いたものではあるが、読めなくてもチベット仏教に関心のある方にも、アメリカのチベット学者たちが、チベット語文献の普及にどのような貢献をしてきたか、その情熱の一端に触れられるのではないかと思う。

 これも公開していいかどうかは分からないが、公開したとしても、あまりアクセスする人はいないであろうから、秘かにPDFを公開しておく。Dropboxの共有リンクなので、少々重いとは思うが、関心のある方をダウンロードして読んでみてほしい。
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svabhāvapratibandhaについての対話 [仏教論理学]

svabhāvapratibandhaについて、「それは方向性の問題でしょ。それならコンセンサスは形成されたのではないですか」という意見をよく聞く。確かに「コンセンサス」という意味では、多くの人の意識に焼き付いたかも知れない。しかし、僕が言いたいことはそんなことではなかった。そして、ふたたびそれは理解されることはないような気がしてきた。多くの人たちが「方向性」という方向に流れていき、その言葉にダルマキールティが込めたと思われるニュアンスは失われていくと僕には思える。

次のような質問があった。

福田先生がpratibandhaを「従属している」「依存している」と訳したほうが良いと主張なさるのは妥当だと思いますが、その訳語を用いることによってダルマキールティの文章を読んだ時のメリットと、「結合している」「結び付いている」という訳語を用いた時のデメリットが知りたいです。(sādhya)-loc. (sādhana)-gen. pratibandhaという構文から、論理的指示関係を導き出すことができるのなら、どちらの訳語を用いても構わないのではないでしょうか。

pratibandhaを「結合関係」と訳した時、ダルマキールティの文章を理解する際にどのような不都合が起きるでしょうか。論理的指示関係があることはすでに学界でも認められてきたようですが、その論理的指示関係を念頭に置きながら「結合関係」と訳すのはナンセンスですか?

倶舎論で「結合関係」というふうに訳すとまずいのは分かりますが、それは倶舎論での話で、まさに先生も仰ったように、ダルマキールティは従来のpratibandhaの理解から離れて新たな意味でpratibandhaということばを使っているのですから、倶舎論での不都合は理由にならないと思います。

以下は僕の回答の一部である。

僕の理解は、シチェルパツキーのようにexistentially dependent on ということです。これを見たとき、実にすばらしい訳だと思いました。みんなが結合関係と訳すずっと前の訳です。svabhāvaは、「実存existence」だと以前に言ったことを覚えていますか。論証因の実存が所証に依存しているのです。ですから、単に結合したり関係したりしているわけではありません。つまり結果の存立が原因に依存し従属しているということです。ですから原因を無くせば結果は存立し得ません。その感じを「結合関係」という言葉で表現できますか。

論理的指示関係という言葉さえ誰も使っていません。僕一人が使っています。そのsvabhavapratibandhaはその論理的指示関係の根拠になるものです。論理的指示関係は後から出てくるものですし、それを最初からsvabhāvapratibandhaに読み込んではいけません。svabhāvapratibandhaだけで、ある「関係」を表現しています。それが、その存立が他のものに「決定的に従属し依存している」ことです。ダルマキールティは論理的な関係の意味でpraitbandhaを使用したのではありません。その「決定的に従属し依存している」ということを術語化しただけです。

svabhāvaについて、それを「実存」などというのは、もっと理解力を要する話だと思います。多くの人は理解しないでしょう。あれだけ言っても、praitbandhaについて「方向性」のことだと言っているくらいです。方向性なんて、当たり前のことで、だからみんなは簡単に同意をするのです。問題は、方向性ではなく、そのものが存在するために他のものに依拠しなければならない、ということなのです。

質問者の言及の中で、「ダルマキールティは従来のpratibandhaの理解から離れて新たな意味でpratibandhaということばを使っているのですから」とあったが、これは僕がインド論理学研究会(7月7日・駒澤大学)で話した内容に基づいている。

『倶舎論』や『翻訳名義大集』では、pratibandhaは「妨げるもの」という意味でしか使われない。それに対してpratibaddhaは「依存する、従属する」という意味が第一義である。これは両書のチベット語訳がともにそうなっていて、さらに『倶舎論』の漢訳も同様である。

ところで、ダルマキールティの用例から svabhāva-pratibandha = pratibaddha-svabhāvatva という等式が導き出せる。すなわち、pratibandha とは pratibaddhatva である。pratibandhaには、論理的指示関係の基盤になるような意味はない。しかし、pratibaddhaならば、A-pratibaddhaで、Aに依存する・従属するという意味になり、Aに従属・依存しているものは、そのA無くして存在し得ないことになる。言い換えれば、それが存立するためにはAの存在を必ず要請する。したがって、Aを推知させることができる。

ダルマキールティが、このような意味のpratibaddhasvabhāvatvaをsvabhāvapratibandhaと術語化したとき、当時の人々は、「svabhāvaを妨げるもの」という意味を頭に思い浮かべ驚いたのではないだろうか。もちろん、それでは意味は通じない。そこでpratibaddhasvabhāvatvaの意味であると知って、「そのsvabhāvaがpratibaddhaしているもののみが所証を理解させる」すなわち、その存在が他のものに決定的に従属しているもののみが、それが存在することによって他のものの存在を確実に推知させることができる、という意味でsvabhāvaがpratibandhaしている、という新たな「意味」が、インド哲学の世界に創出されたのであろう。それ以降は、人々は、現代の研究者に到るまで、pratibandhaを「妨げるもの」という意味ではなく「結合関係」の一種と考えるようになってしまったのである。しかし、もともとダルマキールティは「結合関係」の一種としてこの語を用いたのではなく、そのものが存立するためには、他のものの存在を必要不可欠なものとして要請するといういみで、他のものの存在に決定的に依拠し従属していることを、論理的指示関係の基礎に据えたのである。

というようなことを発表はしたが、人々の頭の上を通り過ぎる無常な風になってしまったようである。
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パネル「討論 svabhāvapratibandha─ダルマキールティ論理学の根本問題」を終えて [仏教論理学]

 7月1日日本印度学仏教学会学術大会の2日目の午後、4つのパネルが企画されていた。僕はそのうち、唯一インド仏教関係のかなり学術的(ということはオタクな)パネルに参加した。タイトルが、どの一言をとっても関係者を惹き付けねばおかないような扇情的なタイトルである。

 討論 そもそも日本の学会で議論を戦わすことなどほとんどないのに?
 svabhāvapratibandha これについてはかつて多くの人が魅了されて、みな一言いいたいことがあるはず。
 ダルマキールティ インド仏教論理学最大の哲学者で、この人の影響のもとにインド仏教のみならずインド哲学諸派の認識論・論理学が大きく変容していった最重要人物
 その論理学の根本問題 「根本問題」?根本だといわれたら、それを聞かずに済ますことなどがどうしてできようか。

といった具合である。戦後の全世界の仏教論理学は、ウイーン大学のシュタインケルナー教授が牽引車となり、その元にほとんど全ての仏教論理学の研究者が集い、留学し、学会を催してきた。そのシュタインケルナー教授の主張の中から、svabhāvapratibandhaが最も重要な概念だと指摘し、人々の注目を集め、研究の火付け役になったのは駒澤大学の松本史朗さんである。同じ駒澤大学の金沢篤さんと僕とで30年前に読書会をしていたことは以前に記した。三人が発表した論文は、その後の論理学研究ではほとんど影響を与えることなく過去の古雑誌の中に埋没しかかっていた。

そしてシュタインケルナー教授とともに世界の論理学研究を牽引してきた、わが桂紹隆先生の最近の論考に対して、金沢さんが激烈な批判を投げかけ、一体この30年の歩みは何だったのかと問い質した。それに対して、当の桂先生が、その批判に答えようと、パネルに参加することを引き受けてくれた。

そんな経緯があったので、誰もがこの扇情的かつ本質的なタイトルと参加者に目を奪われ、会場を満員にしてのパネルとなったのである。

パネリストは、他に次の面々である。

1. svabhāvapratibandha 研究の見取り図 片岡 啓
2. svabhāvapratibandha とavinābhāvaniyama の関係をめぐって 石田 尚敬
3. 三度目のsvabhāvapratibandha  福田 洋一
4. svabhāvapratibandha とavinābhāva  金沢 篤
5. svabhāvapratibandha について、金沢批判に答える 桂 紹隆

150分休みなしのはずなのに、全く時間の経過を感じさせない密度の濃い、集中した議論が行われた。実際は少し超過したから160分と言っておこう。普通、これだけの長さがあったら中だるみがありそうなのに、人々の頭は一時も休むことなく動き続けた。

ほんとうは、何かのコンセンサスを作れたらいいねと金沢さんとは話をしていたが、それができたのか、できなかったのか、あるいはできる必要があったのか、その可能性さえあったのか、分からない。

おそらくそれぞれの主張は、そのときの議論を踏まえ、来年初め刊行予定の『インド論理学研究』に掲載されるはずである。僕自身の主張の一端は、前のブログに期間限定で掲載してあるし、僕の用意した配布資料(ほとんど読み原稿に近い。)はここに置いておくことにする。

このパネルの総括については、7月7日の駒澤大学で開催される「2012年度第1回インド論理学研究会」にて話をすることになっている。関心のある方は聞きにきていただければと思う。
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