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AppleがIntelプロセッサを採用と聞いても [雑感]

特に、驚くほどのことではない。もちろん、ずっとMacを使い、その上でプログラムを作ったりもしてきた人間にとって、モトローラのMPUを捨てることについては、感傷的な抵抗があるが、それはあくまでこれまでの歴史に対する思い入れのせいであって、現状を素直に考えれば、そういうこだわりには、全く意味のないことが分かる。

 特にOS Xに移行してからは、基本的には使いやすいUnixという使い方が非常に多くなっている。Unix上で何かをするのに、一番安定していて、簡単で、居心地がいいのが、MacOSXである。Linuxの各種ディストリビューションも、デスクトップ環境に関しては、OS Xほど安定しているものはない。

 そして、現在のOSXのほとんどのソフトはgccでコンパイルされていることを考えると、ハードに依存しないようなプログラムは、単にOSがIntel上で動くようになれば、ほとんど修正なしにコンパイルできることになる。Appleもそう説明しているが、それは事実だろう。

 だからといって、OS Xのユーザーインターフェースが変わるわけではないのだから、ユーザー側からしてみれば、ほとんど変化はない。OS Xは、そのくらい抽象化が進んでいるのだと思う。

 むしろ、そのおかげで機械が安くなったり、ノートパソコンのスピードが上がったりすれば、それは寿ぐべきことだ。そういう期待を、この一年胸に秘めつつ、OS Xのさらなる発展を見守りたいと思う。


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舌を噛む─会話はキャッチボール [雑感]

 夕食のときに、どういうわけか、舌を奥歯で噛んでしまった。かなり強く噛んだらしく、血がなかなか止まらない。最初は食事も何とか終わらせ、しゃべれてもいたが、だんだん舌がしびれてきて、そのうち動かせなくなった。動かすと痛いし、唾を飲み込むのも痛い。

 夕食後は妻と近所(と言っても、駅一つ先にある)の神社にある延命地蔵尊まで、お参りがてら散歩をする。往復1時間くらいかかるが、その間、いろいろと昼間あったことなどについて話をし、議論をする。それぞれの大学での出来事や批評、感想、その日の事件、映画やドラマの批評などなど。妻はコミュニケーションの星座双子座生まれで、僕は夢見る魚座だし、そもそも僕は口数が少なくしゃべるのが不得意な性質なので、しゃべる分量は、5対1くらいで僕の方が圧倒的に少ない、と思っていた。

 ところが、今日のように僕が全く口をきけなくなると、妻は話を続けることができなくなってしまった。もちろん、「うん」とか「ううん」とかいう相槌くらいは打てるが、言葉は発せられない。すると、いつも一人でもよくしゃべる妻も、会話を進めることができないのだった。

 こうしてみると、口数が少ないようで、聞き手に回っている僕の合の手は、会話を引き出し、先に進めるために、重要な役目を担っていたことになる。聞き上手、ということなのかもしれないが、だからといって、誰に対しても、うまく話を引き出せるわけではないのだから、あくまで妻仕様の聞き上手ということなのだろう。

 いずれにせよ、今週の授業が終わったあとで、よかった。これでは授業にならない。あと数日のうちに直ることを期待しよう。


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風邪だ。 [雑感]

 どうも昼頃から頭の芯の方が重く、だるいと思っていたら、夕方新幹線で2時間移動している間にどんどん悪化して、夜になって熱が出てきた。僕は漢方オタクなので、こういうときは葛根湯に限る。手軽にカコナールを飲むが、日本続けて飲んでゆっくり寝ると大抵よくなる。 

 東洋医学にはそれなりに長年関心を持ってきた。今でも毎月、チベット医学の原典講読をやっている。『四部医典』という基本文献の薬学のところを、共同で訳している。例によって、妻と、あとは大学の後輩と、鍼灸ジャーナリストの人とである。

 どうもこのところ、夜更かしをしていても、途中で椅子の上で居眠りをしていて、ムダに寝るのが遅くなっていた。体調が悪かったのだ。といっても、いろいろやることが山積みなのでゆっくりはできるわけではないが、取り敢えず、今日、書こうと思っていたブログの記事は、明日に延期しよう、という弁明の記事でした。


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自分の名前をブランドに [雑感]

 個人情報保護法案が施行され、さまざまなところで、個人情報についての取り扱いに関する表示を見掛けるようになった。2、3日前の朝日新聞では、この法案のおかけで、社内報などに新入社員の情報などを載せづらくなった、一方、各部署では、それら社員の情報をみんなで共有することで、親睦を深め組織としての会社の一体感を作り出すことができる、と主張するという。

 この法案の元々の趣旨は、個人情報は危険だから公開すべきではない、ということではなく、人の個人情報を、当人の知らないうちに勝手に公開してはならない、という法案なのだろう(内容を知っているわけではなく、その経緯や名称からの推測だから、鵜呑みにしてはいけないよ。)。ネット上での個人情報の開示にどの程度の危険があるのか、はこの法案とは別の話だと思う。

 個人情報と言っても、もちろん、公開してもいい情報もあれば、公開できない情報もある。例えば、銀行口座やクレジットカードの番号などは、もちろん公開していいはずはない個人情報だ。それは当たり前だ、と言ってはならない。これも個人情報であり、であるとすれば、公開することが危険かどうかが問われていいものの一つだということになる。

 それに比べて、名前はどうだろうか。もし、犯罪を犯した人間ならば、その名前を公開することはためらわれるだろう。もちろん、犯罪を犯そうとしている人間も、本名を公開することはないだろう。たぶん、名前を公開できるかどうかは、その人がネット上で何をしているか、にかかっているのではないだろうか。つまり、名前そのものよりも、ネット上で発信している内容が、そもそも特定の人間に結びつけられるのが困るようなことを書いているとすれば、名前は公開できないのではないか。一方、それが正統な内容であり、しかも伝えるべきものを伝えているのであれば、名前をそこに記すことに問題はないように思われる。

 掲示板で本名を書かずに発言することと、本名で発言することとでは、大きな違いがある。本名を書かなければ、無責任な発言、他人あるいは誰かを装った発言をすることができる。少なくとも気楽な発言をする傾向にある。一方、本名で書き込むとすれば、無責任な発言はできない、あるいは自分の発言に対して責任を持つ必要が出てくる。

 ネット上で何かをする、というのは、他の人、あるいは社会に対して、自分の何かを表現し発表し、訴えることだ。その表現に責任を持つためには、やはり本名で情報の発信をするのが好ましいのではないかと思う。本名で発言しても問題のない有り様をネット上でもすべきではないかと思う。その上で、匿名希望の投書もあり得るのだし、その匿名にせざるを得ない理由も納得のいくものとなるのである。だれもかれもが、何もかも匿名にしてしまっては、本当に匿名希望にする理由のある情報との違いもなくなってしまうに違いない。

 ブログはたいてい本名では書かれない(僕は本名で書いているし、ネット上で、本名以外ではほとんど活動していないが。)。これはもともと個人の日記を公開するところから始められ、そもそも日記は公開すべきものではないことから、匿名性の高いツールであることは分かる。しかし、それが自己を表現し、情報を発信する一般的なツールになった今、それを日記の延長で匿名であり続けるのではなく、自分の名前をブランドにまで仕立てるだけの表現手段として捉えるたらいいのではないかと思う。


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みどりの日─偶然と運命 [雑感]

 今日は、12年前に亡くなった義母(妻の母)の命日だった。13回忌の法要を行った。義母の名は「みどり」と言った。偶然ではあったが、毎年、母の命日に因んで付けられた名前のような錯覚を覚える。

 妻は父を早くに亡くした。早くと言っても、生まれる前であった。その命日が5月の29日である。夫婦が、一月違いで同じ命日になったことになる。

 妻には兄弟もいないので、我々の家族は、非常にこじんまりしている。後は「ごろうちゃん」と「ガキドウ」と4羽のセキセイインコがいるだけである。

 偶然と言えば、後から分かったことだが、チベット史を専門としている妻の遠い親戚に「石濱純太郎」という東洋史の学者がいた。この人は実は日本ちべっと学会の初代の会長で、学会を立ち上げた人だった。知らぬうちにチベットをやるようになったのも、偶然とは言えない血筋があったのかもしれない。

 僕も彼女のある運命の中で出会い、その世界を彩る一人なのかも知れない。


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ブログでの自己表現 [雑感]

三年生の僕のゼミ生は全員ブログを作っている。毎日更新する生徒もいれば、週に一回程度の生徒もいるが、僕は全員のサイトを回って、できるだけコメントをするようにしている。もともとは、週に5コマ(!)もある僕の授業の感想というか、その都度の問題点とかを書いてもらおうと思って始めたのだが、そして、そういう書き込みも多いのだが、日記のような毎日の様子を書き込む生徒も多い。

 このブログは、春休みの2ヶ月に書かれていたので、まだゼミが始まる前だと言うのに、それぞれの学生の性格というか、雰囲気がよく分かった。いつもだったら、顔と名前を覚えるのに、5月か6月くらいまでかかるのに、それが4月のこの段階でも、覚えてしまった。この効果は大きい。

 実際には、本人に会ったときの印象と、ブログの文章との間にギャップがある学生もいる。なかでも、「じゃぱん」さん(http://terazone.seesaa.net/)は、その軽妙な文章と現実の雰囲気とはかなり違っている。とはいえ、ギャップがあるということを言いたいのではなく、その文章が、とてもリズミカルで、簡潔に日常を描写しているのが素晴らしいと思う。

 僕のブログは、全然日常的なことを書くことができない。毎日が意見広告みたいな、主張の強いもので、それではどのような生活をしているのか、ということは全く表現されていない。日々の記録としては役に立たない。

 一方、女性の中に(ゼミ生ではないが)、とても素直な文章で毎日の出来事を書いている人もいる。ブログを毎日書き続けるのは大変なので、続ける人は、言葉数を抑える傾向にあるが、その人の記事は、そこそこの長さでありながら、一気に読ませる。自然な分かりやすい文章だ。これもなかなか書けるものではない。長さを感じさせない自然な文章が素晴らしい。ブログは大抵、推敲を重ねて書き込むものではなく、一気に書いて、見直しをせずにアップしてしまうので、そういう文章を書けるのは、その人の持って生まれた才能だと思う。

 やはり、文章には才能によるところが大きい。

 ブログではないが、僕の妻がホームページのトップ(http://tibet.que.ne.jp/okamenomori/index.html)に書いているコラムも、おもしろい。これは素直な文章というよりは、むしろ毒を持った文章だが、男勝りの簡潔な文章の中に、ある独特の人格・性格が造形されている。これは本人の本質と言えるかどうかは微妙だが、他の人が会った印象とは概ね一致している(ただし、それが本人の本質であるとは言えないのだが。)。これはブログのように後から遡って読めるものではなく、数日毎(不定期)に更新するたびに、新たなものに置き換えられてしまう。読み逃したら永遠に読めないので、ファンは毎日訪れているようだ。

 こういうように、持って生まれた文章の才能と性格がブログの文章の中に現れているのたが、それだけではなく、ブログを書くことで、短い文章の中に自分をどのように表現するか、というトレーニングをしているとも言える。

 自分の個人的な体験を書きながら、それを自分だけのための単なる日記として書くのではなく、公開するわけだから、そこには何らかの他者に向けての自己表現、という意味がある。そのことを意識して、単に自分の生の感情や考え、体験そのももを書くのではなく、そういう個人的なものを一度公のものへと昇華して表現しようとする姿勢が大切だと思う。


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