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無償の利他行はとてもできない [チベット]

人のために何かをすることを仏教では利他行と言う。それに対して自分のためにする行を自利の行と言う。利他と自利は必ずしも相反するものではないと仏教では教えている。真の利他行は究極的には自利にもなると言うし、あるいは本当の自利は徹底した利他行によってのみ得られるとも説く。

ツォンカパの『ラムリム(菩提道次第論)』では、大乗の説明に入ったところで、利他の精神および、それに基づく菩提心を詳しく扱っている。それによれば、大乗に入る入り口、しかも唯一の入り口は菩提心を起こすことである。

菩提心とは、他者の利益になることを行うために、完全な覚りを目指そうという気持ちである。菩提心には、他者の利益を望む心と、覚りを目指そうとする心という2つの希望が必要となるが、より重要なのは前者、すなわち他者の利益を望む心である。利他の精神である。ひとのためになることをしたいと望む心である。利他行を実践しようとしたとき、本当にそれを実現するためには仏陀の覚りを目指さなければ、利他を実践できないことに気付いて、利他のために覚りを目指そうと決意することになる。

その利他の精神は、さらに悲心、すなわち他者の苦しみに対して、苦しまないようにしてあげたいという憐れみの心が根本となっている。憐れみの心が出発点であり、まち利他行を維持する原動力である。

ふつう「慈悲」と一括りに言われるが、慈と悲は別ものである。慈とは、現代語では愛と言い直してもいいだろう。他の人が幸せであって欲しい、幸せでいられたらいいなと思う気持ちである。悲は他者の苦しみを取り除きたいという気持ちである。まずは愛する気持ちがなければ、その愛するものを苦しみから救い出したいという気持ちは起こらない。だから、まずは愛する気持ちを持つことが必要である。

その愛する気持ち(そして憐れみの気持ちも)を起こすにも、段階を踏んで大きく育てていく必要がある。あるいは段階を踏んで大きく育てていくことができる。

まずは、自分の近しい人、家族や親友などに対して愛する気持ちを持つこと。次は、自分に利害のない第三者に対して、自分の近しい人に対するのと同じような愛情を持てるようにすること、最後は、自分にとって害をなす人に対しても、近しい人に対するのと同じような愛情を持てるようにするのである。一切の衆生は、この三タイプに尽きる。したがって、この三段階を踏んで愛情を広げていけば、最終的には一切衆生を等しく愛することが出来るようになる(はず)とツォンカパは力説している。

愛情が全ての衆生に対して等しく向けられるようになれば、次はその愛すべき一切衆生が苦しみに沈んでいるのを見ていられなくなり、何とかしてあげよう、助けてあげようという気持ちもまた一切衆生に対して持てるようになる。この限りなく大きくなった悲心を「大悲心」と言う。

それが原動力となり、自分の心を訓練し、菩薩行に励み覚りを目指すことになる。

これが菩提心を心に生じるためのプロセスである。

もちろん、これは凡人には難しいことは明かである。自分のことを顧みても、見返りを期待しない利他の行いはとても難しい。できそうにないばかりか、そうしたくないという気持ちさえある。

僕は教育者だから、自分の知っていることを教えてあげたいという気持ちは人一倍持っている。人のために自分のできることをしてあげたいという気持ちも持っている。それは威張りたいわけではないし、誉められたいわけでもない。またGive and Takeの気持ちでもない。自分だけが何かをしたら損をすると考えているわけでもない。だいたい、教育というのは、学生から同じように何かをしてもらうことを期待してするものではない。人のために何かをするとき、純粋にそうしてあげたいと思っている。これはある意味で悲心と言ってもいいかもしれない。

だが、まったく無償の気持ちで人のために何かをしているかというと、やはりそうは言い切れないものがある。人のために何かをしているとき、何を期待しているのだろうか。たとえば、教えているときには、学生がそれを身に付け、出来るようになることを期待している。もちろん、完全に出来るようになることまでは考えていない。少なくとも身に付けられるように努力することを期待しているし、また教えてもらえることを喜んでくれることも期待している。

困っている人に何かしてあげようとするとき、その人が楽になって欲しいと思うと同時に、感謝してくれることを期待している。鳥や猫をかわいがっているとき、僕に対して絶対的な信頼の眼差しを向けてくれることを期待している。

これらを期待しているからと言って、それはその行為の目的でも動機でもないことは確かである。しかし、もしこれらの期待が満たされないと、やはりやる気を失ってしまう、あるいは少なくとも積極的な気持ちを失ってしまうことも事実である。

また、僕がそうやってしてあげる対象は、全ての人に対してではない。そこには「近しい人」に対して、ある特定の人に対して、という限定がある。その近さの度合いに従って、何かをしてあげたい気持ちの強さも変わってしまう。

このような僕の利他の行為は「大悲心」や「大慈心」に基づくものでないことは明かである。しかし、僕の小さい心は、そのような期待や限定を持たずに人のために何かをすることができそうにもないのである。それでも、少しでもその行為の徳を積んで、来世では大悲心を実現できるような人間に生まれ変われることを期待したい。
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自分よりも他の人の方が大事 [チベット]

 Others before self「自分よりも先に他の人を」ーーこれは、亡命チベット人の子どものための学校「チベット人子ども村 Tibetan Children's Villages (TCV)」の庭に掲げられている指導方針である。この学校は長い間、ダライ・ラマ猊下の妹であるジェツン・ペマさんが代表を務めていた。この指導方針も、猊下が提案したものだと言う。

 実はこの言葉の元のチベット語は、rang las gzhan gces「自分よりも他の人の方が大事」である。僕は、この原語の方がいいと思うのだが、よく考えたら、TCVの子どもたちは、このチベット語の原語の方を読んでいるのだから、問題はなかった。

 さて、日本では仏教に関心を持つ人の多くは、仏教に救いを求めるのが動機であろう。悩みがあったり、苦しいことがあったり、迷っていたりして、それを解消してくれる何かが仏教にあると思っているにちがいない。

 ある仏教学の先生が、最近の若い人に「自分は救われる必要ないよ。」と言われてしまうと、何と言っていいか分からなくなる、と僕に嘆いたことがある。しかし、そう考えること自体、仏教は、自分が救われるためのものとその先生が無意識のうちに考えていることを示している。

 だが、ダライ・ラマの本を読んだことがある人なら気付くであろうが、大乗仏教の基本は菩提心である。菩提心とは、全ての生きとし生けるものを救うために自らを顧みずに仏道の実践をしようという決意することである。

 これは、慈悲、すなわち、他者が幸福になることを願う心と他者の苦しみを取り除きたいという気持ちとに他ならない。この慈悲の心である菩提心がなければ、大乗の道に入ったことにはならない。そして、いかにして、このような菩提心を育めばよいかが、ダライ・ラマ猊下のお話の大部分をしめるのである。

 この慈悲心を子どもにも分かるように標語にしたのが、「自分よりも他の人の方が、もっと大事」というTCVに掲げられた言葉である。

 仏教の教えるところでは、自分のことを考えなければ考えないだけ苦しみから解放され、他者のことを考えれば考えるだけ幸せになれる。これが、最も本質的な大乗仏教の精神である。

 そんなことは自分にはできない、と諦めてしまう人が多いに違いない。できなくて当たり前だ。これができなければ、仏教に入ったことにならいと言っているわけではない。発心することが大事なのである。それを到達目標にしようと決意することが大事なのである。それを実現するのは仏になるときであり、それはずっと先の話である。しかし、出発しなければ、そして正しい方向に向かって歩き始めなければ、目標に辿り着くこともない。できないよ、と逃げてはいけない。お釈迦様は、われわれ人間に無理なことなど説いてはいないはずである。
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チベット仏教の存在論 [チベット]

 前の記事に次のような質問がコメントで寄せられた。記事の内容そのものに関わるものではなく、また質問自体も普通の人には難しく、お答えするにも、ある程度の説明が必要なので、新たな記事にすることにした。ついでにブログの更新にもなるので、一石二鳥です。

 質問は、
チベット仏教の考え方につきまして質問があります。
1.絶対真理と無我と無自性は等しいといえるでしょうか。
2.無我とは法無我と人無我の二種類のみでしょうか。
3.法無我にも人無我と同じように存在しないものと存在するものとがあるのでしょうか。
4.もしあるとすればそれはどのようなものと考えればよろしいでしょうか。
5.人無我であり、存在するものであり、常往なもので、正しい認識(量)の対象(所縁)となるものはありますでしょうか。
6.法無我であり、正しい認識(量)の対象(所縁)となるものはありますでしょうか。
7.’それ自身が因や縁となることにより、他の有為法へ何らかの効果的作用(功用)を及ぼし得る。このような存在を、「事物」というようですが、’この場合の’事物’はチベット仏教入門の中のあらゆる事物(諸法)のあり方を説明するときの’事物’は同じ意味(チベット語で同じ単語?)でしょうか?

というものである。

1. 「絶対真理」という言い方はしないであろう。これは「勝義諦」を意味しているものと思われる。勝義諦は世俗諦と対になって「二諦」と呼ばれ、中観思想の根幹をなす存在論的区別である。が、その関係は非常に多くの議論が必要でひと言で説明はできない。ただ、勝義諦は存在の本当のあり方を指していて、それは空性を指す。空性と無自性は同じ意味である。しかし、無我に関しては、人格的な無我(人無我)と存在の無我(法無我)という2つがあり、その存在の無我は空性と同じだが、人格の無我は関係はあるにせよ、全く同じというわけではない。

2. これはそのとおりである。

3. そもそも「法無我」というのは述語であり、その主語が必要である。主語はまずは「一切法」と考えて善い。一切法は法無我である、というのは、「全ての存在はそれ自体で成立しているような実体性を持たない」という意味である。しかし、同じその「一切法」は「存在している」と言える。存在はしているが、実体としては存在していない。それが法無我である。

4. 3を参照。

5. 人無我であるものには、存在するものと、ウサギの角のように存在しないものの2つがある。そのうち存在するものは、正しい認識方法(量)によって認識されるものとして定義される。その存在するものには、常住なものと無常なものの2つがある。常住なものは、観念的な存在や、虚空のような原因のない存在である。これも「存在するもの」であるから、正しい認識方法によって認識されるものである。

6. 「存在するもの」と「法」は同義語であり、指しているものは等しい。一切法とは全ての存在するものの意味であり、それが主語となって「法無我である」と述語を述べることができる。存在するものは、その定義上、全て正しい認識方法によって認識されるものである。

7. 存在するものは常住なものと無常なものに二分される。常住なものとは原因を持たず、結果を生まない故に変化せず常住である。それに対して無常なものは、原因によって生じ、また他のものを結果として生み出すという因果関係の中にある存在であり、ひとときとして止まることなく変異していく存在である。これと「事物」というのが、通常は同義語とされる。その同じチベット語を「実在」と訳すこともある。しかし、一切法というときの法は、6に述べたように、存在するものの意味であり、因果関係にある無常なものも、因果関係にない常住なものも含めた上位のカテゴリーを指す語であるので、これを「事物」と訳すのは混乱のもとである。もちろん、常住ものを「事」、無常なものを「物」と訳すという立場もあり得ないわけではない。しかし、あまり一般的な訳語ではないと思う。

顔を見ながら図を書いて説明し、理解を確認できれば、一番いいのだが、このような文章だけでどれだけ伝わったか心許ない。

 これと多少の関係があるが、僕は講義や講読の録音テープのいくつかをネット上にアップしている。そこのリンクが切れているとの指摘を何人かの方から何度もいただいた。今日は、これまでアップしていなかった分も含め、リンクの修正を行った。ご指摘していただきながら、長らく放置してきて申し訳ありませんでした。この場を借りて、お詫びとお礼とご報告をさせていただきます。

 ここには、ラムリムチュングの講義、ヨンジンドゥラの講読、インド仏教論理学の最後の綱要書「論理のことば」の講義、途中で挫折した「リクゲン」の講読、「レクシェーニンポの講読」の録音データが置いてあるほか、今作りつつあるチベット語文語文法用のプリントも置いてあります。
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ダライラマ法王に説法? [チベット]

 もう一週間前になるが(時間の過ぎるのが早い。その間に自分のしたことと言ったら、slight developmentでさえない。全てに遅れていく。)、横浜でのダライ・ラマ法王の講演会の質疑応答で、法の華の信者の女性が、法王に向かって、開口一番「サイコーですかー?」と大声で問いかけた。声だけを聞くと、実に明るい大きな声で、元気一杯。元気がいいことだけが取り柄です、という感じだった。

 それに対してダライ・ラマ法王は照明除けのサンバイザーを取って背筋を伸ばし、英語で(英語自体は覚えていないが)「あなたが見て判断して」と答えた。まあ、「サイコーですかー_」という質問だけなら、それでいいだろう。

 だがそれに対して、その女性は「心の底から大声で笑うことが釈迦の教えの本質です。サイコーですかー_」と続けた。なんと、チベット仏教の(ということは仏教の)最高指導者にして、観音菩薩の化身であり衆生済度のためにこの世に生まれてこられた方に向かって、釈尊の教えの本質を「説教」したのである。あり得ないことである。

 もちろん、その女性はそういうダライラマ法王の生まれも生い立ちも教えも何も知らないに違いないし、知る気もなかったのだろう。それはそうなのだが、ただ、それをして、何と無知な人か。あるいは何と滑稽な行動をしていることか、と考えるのは易しい。しかし、ここで僕が強調したいのは、そのことではない。

 これはその日の法話と講演の最後に行われた質疑応答であるから、法王は諄々と一日かけて仏教の本質について明解で揺るぎない話をされてきた。ゆっくりと繰り返し大事なことを話してきたのである。もちろん、それは今日に限ったことではなく、日本でもたくさんのダライラマ本が出版されている。だから、日本語でも十分に法王のお考え、あるいはチベット仏教の基本精神について知ることができる状況にある。

 そうやって一日、一人で午前、午後と講演をした挙げ句に出たのが、そのダライラマに対して釈尊の教えの本質を教えるという女性の言葉である。普通であれば、それまでの努力が全く何も実を結んでいなかったことに対して腹を立てるか、あるいはもちろん怒りはもっともよくない煩悩であるから、怒らないとして、呆れ、一気に疲れを感じて、もうこの人たちに法を説くのは止めようと思うか、少なくとももうこれ以上質疑応答をする気になれ無くなるであろう。

 凡人だったら、そうするに決まっている。しかし、法王はまったく意気消沈する様子もなく、真面目に(ユーモアもなく、検査をしなければ最高のコンディションかどうかは分かりません、というように)答えた。そしてその後も何人もの質問を受け付けて答えていった。どのようなしょーもない質問にもくじけずに答えていったのである。

 その姿を見たとき、梵天勧請のことを思い出した。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いたとき、それを理解できる人はいないだろうと思って、このまま法を説くことなく、自分一人でそれを享受していよう考えた。それを知って、インドの神様である梵天が、「全ての人が理解することはできないが、あなたの教えを聞くことで悟ることができる人もいるのだから、その人のために法を説いて欲しい」とお願いし、「わかった」ということで法を説くことにした、という釈尊伝の有名な伝説である。

 その数少ない人はほんとに少ないかもしれないが、今が駄目でもこれから何度でも諦めずに教え続け、いつかは誰かが仏教を理解してくれるに違いないと法王は確信しているが故に、こんな質問があってもひるむことなく教え続けているに違いない。釈尊は最初の説法のときに、すでに五人の比丘を得ている。では、この日本で何人の人がダライラマ法王の説く仏教を理解して自ら発心するであろうか。そんなことを考えずに、ただ仏教のためにできるだけのことをする、という姿勢だけが際立って印象に残ったのであった。

 これはダライラマ法王に限ったことではない。2月にインドの再建デプン寺ゴマン学堂に行ったとき、その学堂長が我々日本人の訪問団に対する挨拶で、「私は仏教のためにできることは何でもします。ですから、仏教のために必要なことは何でも言って下さい。」と何度も強調していた。それは単に社交辞令で言ったのではない。かれらはやはり仏教が広まるためにはどのような労苦も厭わないという気持ちを純粋に持っているのである。
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ダライラマ法王の横浜講演「縁起讃」(修正) [チベット]

 ダライ・ラマ法王講演の深夜に書いた文章が分かりづらかったので、少し書き直した(2010/6/29)。もし、なお分からないことがあれば、コメントでお聞き下さい。

 今日、ダライ・ラマ法王の横浜での法話と講演を聞いてきた。午前に仏教についてのお話、午後に一般的な講演と質疑応答があった。パシフィコ横浜の展示ホールという大きな会場が一杯になる盛況で、きっとぎりぎりならば並ばずに入れるだろうと高をくくった僕たちは、会場に入るまでに30分もかかってしまい、結局、法話の最初の方は聞き逃してしまった。

 今日のテキストは、聖ツォンカパの『縁起讃rten 'brel bstod pa』であるということで、かなり本格的な中観のお話になると期待していった。というのも、この『縁起讃』という短い著作は、短いにもかかわらず、ツォンカパの歴史的転機となるときに書かれたものだからである。

 ツォンカパはそれ以前から、文殊菩薩と直接対話をして、仏教、特に中観思想の難解な点についていろいろと質問していた。しかし、文殊菩薩のお答を十分に理解することができず、挙げ句の果てに「お前に話すべきことはみんな話した。すぐに分からないかも知れないが、私の言ったことを書き留めておいて、あとでよくよく考察せよ」と突き放されてしまう。ツォンカパは文殊の言葉とインドの聖典を繰り返し繰り返し勉強し考えに考えを重ねた。

 あるとき、夢の中でインドの中観の論師5人が議論をしているのを見た。その中の一人がつかつかとツォンカパの元に近づき、「私はブッダパーリタである。」と言って、彼が書いた中論の注釈書のあるページをツォンカパの頭の上に載せた。そこで目が覚めたツォンカパは、その示されたページを読むとたちどころに中観思想の奥義をはっきりと理解することができた。そのときに、そのことを喜んで「縁起を説いた点から釈尊を賛嘆する偈」を書いた。それが『縁起讃』である。そして、程なくツォンカパは最初の主著『ラムリム・覚りへの道の階梯』を書き、その最後の章で、その同じ理解を詳しく論理的に論証した。

 こんな経緯があるので、この『縁起讃』はツォンカパが自らの中観思想の理解を確立したときの熱気を伝える重要なテキストだと言える。

 その基本的な内容は「中観派の独自の特長dbu ma pa'i mthun mong ma yin pa'i khyad chos」と呼ばれるものである。これについては、別にかつて(一般向けの雑誌に)書いた論文(「ツォンカパにおける縁起と空の存在論──中観派の不共の勝法について──」PDFがある。ひと言で言えば、「縁起しているものが同時に無自性である」という思想である。この「同時に」というのが大事な点なのだが、そのことを論理的に突き詰めていったのが、『縁起讃』であり、また『ラムリム』の最終章なのである。

 ただ、この偈は結構難しく、注釈がないと読めないものである。そこでダライ・ラマ法王が解説してくださるのを楽しみにしていたわけである。が、さすがに内容が内容だけに、実際にはテキストの解説は最初の5偈くらいで終わってしまった。その分、元のテキストにはないことをいろいろとお話しされた。

 おそらくその内容は突然聞いたのでは、十分に理解できないことだろうと思う。実際に多くの人からダライ・ラマ法王のお話の中でも中観や空のお話は難しくてよく分からないという感想を聞く。しかるに『縁起讃』の内容は、そのなかでも核心中の核心なので、すぐに理解することは難しい。

 法王の解説の流れは妻のブログでもレポートされているので、ここでは、それを補足するために、一番大事だと思うことを少し解説しておきたい。なぜ、この賛嘆偈が「釈尊を讃えるために、釈尊が縁起を説いたことを讃えるのが一番本質的である」と言っているのか、ということを理解するのが、一番大事なポイントである。

 まずは、僕の5偈までの訳を挙げておこう。会場で配られた訳に比べて原文のチベット語に近い訳である。

(1) その〔縁起〕をご覧になったが故に無上の智者であり、それをお説きになったが故に無上の教師である、
縁起をご覧になり教えられた勝者〔たる釈尊=あなた〕に敬礼します。

(2) 世俗的な世界における、あらゆる衰退の根本〔原因〕は無明であり、その無明を退けることができるのは、他ならぬ縁起を見ることによってであると〔あなたは〕お説きになった。

(3) その〔教えを聞いた〕とき、知恵あるものは、縁起の道があなた(=釈尊)の教えの核心であると、どうして理解しないであろうか。

(4) そうであるならば、依怙尊であるあなたを賞讃する観点として、〔縁に〕依って生起すること(=縁起)をお説きになったこと以上に素晴らしい点を誰が見出すことができようか。

(5) 何であれ縁に依って〔存在して〕いるものは、それぞれ自性に関して空であるとお説きになったこのことよりも希有なる正しい教え方は〔他に〕何があるであろうか。

 「世俗的な世界における衰退」とあるが、要するにそれは、この世での苦しみのことである。その苦しみの根本原因は無明、あるいは無知に他ならない。

 無知とは、「智慧がないこと」であるから、無知と智慧は相反する性質のもの、つまり、両立しない。両立しないから、智慧を身に付ければ、無知は自然に存在できずに消滅してしまう。これはとても論理的な話である。情緒的なところは全くない。ツォンカパの思想も、そしてそれを解説するダライ・ラマ法王のお話も極めて論理的に展開される。

 ところで、その智慧とは何か。それが第2偈で説かれる「縁起を見ること」である。したがって逆に言えば、無知とは「縁起を知らないこと」である。縁起を知るという智慧を身に付けることによって、それとは逆の縁起を知らないという無知は自然と消滅し、そして苦しみもまた消滅する。

 だからこそ、その縁起を自ら覚り、それを人に教えた釈尊は素晴らしいとツォンカパは賞讃する。それゆえ、そのように教えてくれた釈尊に敬礼するのである。そのことはまた、縁起こそが釈尊の教えの心髄であることをも教えてくれる。

 それではなぜ智慧とは「縁起を知ること」だと言えるのであろうか。それが第5偈に説かれている。すなわち「縁起しているものが同時に無自性であり空である」というのが「縁起を知ること」の内容である。「無自性」とは「自性がないこと」あるいは「自性に関して空である」という意味であるが、これがものごとの真実のあり方であり、それは縁起しているもののあり方の本質に他ならない。

 それはどういうことであろうか。その点についてダライ・ラマ法王は『縁起讃』の説明を離れて、詳しく解説をされた。法王は縁起に二つの種類があると説き始められた。

 一つは「物事は全て因と縁に依って生じた」という意味での縁起、もう一つは「物事は全て他のものに相対的に名付けられたものにすぎない」という意味での縁起である。ここでは前者を「因果関係の縁起」、後者を「名付けられただけのものとしての縁起」と訳しておこう。

 一切法、すなわち全ての存在は原因によって生じたものだけではない。原因のない、したがって永続的な存在も一切法に含まれる。だとすると、因果関係の縁起では、一切法は空であると言うことはできない。法王によれば、因果関係にあることから導き出される結論は、「無自性・空」ではなく「無常」である。無常とは、物事が一瞬たりとも止まることなく、一瞬一瞬生じては滅していることである。原因によって生じたものは、一瞬後に消滅している。したがって、無常なのである。

 また因果関係を知ることによって、われわれは、善を行えば楽を得ることができ、悪を行えば苦を得ることになるという道理を知ることになる。善と楽、悪と苦の間に因果関係があるからである。これもまた仏教の根本的な教えの一つである。法王は特に言及はしなかったが、修行をすることによって仏果を得る、という主張も、因果関係を前提として始めて成り立つことである。

 しかし、それはまだ縁起のラフな理解にすぎない。より微細な縁起、すなわち理解が難しく、しかし本質的な縁起とは、「名付けられただけのものとしての縁起」である。全てのものは、名前を付けられて始めて存在し始めるのであって、それ自体で「これが〜である」と言えるようなものは、どこを探しても存在しない。そのような名前は、突然それ自体で付けられるものではなく、あくまで他のものとの相対的な関係において名付けられるのである。すなわち、全てのものは他のものとの相対的な関係において、仮に名付けられただけの存在に過ぎない。

 たとえば、因果関係の縁起では、原因によって結果が生じると考えられる。しかし、原因は結果があって始めて名付けられ、考えられるものである。原因は最初から原因なわけではなく、結果が生じたときに原因もまた原因として認識されるようになったのである。したがって、原因とは結果に相対的に名付けられただけの存在にすぎない。もちろん、結果も原因に相対的に名付けられたものにすぎない。このような相対的な名付けの連鎖は、全てのものに及んで、あらゆるものが、何もそれ自体での本質を持たずに相対的に考えられただけのものにすぎないことになる。

 それ自体で成立している本質のことを「自性」と呼び、いかなるものにも、そのような自性が存在しないことが、無自性、すなわち空と言われるのである。これこそが物事の真の存在の仕方、物事の真相である。

 すべてのものは相対的に名付けられただけの存在であるが故に無自性であるということが、第二の縁起の内容に他ならない。これを理解したとき、ものごとを固定的に、それ自体でそういう性質のものであると捉える無明は消滅し、そうすることによって、誤って捉えることに起因する輪廻の苦しみもまた消える。これが智慧の内実に他ならない。

 この第二の縁起と空とは表裏の関係にあり、あるいは全く切り離せない一つの構造をなしている。このことを正しく理解したのが中観派の論師たちである。しかし、そのことを最初に悟り、弟子たちにそれを説いたものが釈尊であり、それが釈尊の教えの核心であり、だからこそ、釈尊がそのような縁起=空を説いたことを賛嘆するのである。

 以上が、今日のダライ・ラマ法王の法話の核心であり、同時に難しい点でもある。もちろん、僕の説明は法王よりも遙かに下手で、輪をかけて難しくしてしまったかもしれない。また、もう少し詳しく丁寧に語った方がいいこともたくさんある。ただそれはもう少し別の機会にゆっくりと解説をしたいと思う。
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Amazonで4〜5週間になっている [チベット]

 『新アジア仏教史』第9巻「チベット」の巻が、Amazonで買えるようになったら、リンクを張ると言いましたが、実際にここのところ見ていると、ほとんど在庫切れで、取り寄せになっていて、しかも4〜5週間かかるとなっています。

 これはAmazonに本を卸している取次会社が、この手の本は高価で大して売れないと判断して、供給を制限しているためのようです。そしてAmazonは機械的に、同様の本の注文と入荷の傾向から、つまり実態に即してではなく、入荷の予想を表示してしまいます。あくまで機械的なものなので、注文したら、発注され、わりあいは早く手に入る可能性はありますが、その表示を見て購入を諦める人も出てくると思います。

 でもネット上には複数のオンライン書店がありますので、そういうところでは2、3日で、あるいは24時間以内に発送できるところもあります。そういうところで購入した方がいいのではないかと思います。

 たとえば、bk1、ジュンク堂、e-hon、Yahoo、楽天、セブンネット、など。とりあえず、googleで「新アジア仏教史」を検索し、これらの書店を見て回り、購入可能なところから購入してみてはどうでしょうか。この価格ですと、すべて送料無料で購入できると思います。

 難しそうだと思われるかも知れませんが、基本的には大学生以上の方を対象にした一般書です。ですから、注も付けてありません。すべて本文だけで分かるように書いていますし、コンセプトも一般のチベットに関心のある人向けに作ったつもりです。『チベットを知るための50章』を内容を絞って詳しく書いたような感じです。ですので、チベットに関心のある方は是非手に取ってみてください。
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新アジア仏教史でカットした部分を復活します [チベット]

 『新アジア仏教史』はAmazonではすぐに売り切れて、入荷待ちになってしまいます。申し訳ありません。出版社にお願いしてこまめに補充するようにしていますので、表示にかかわらずそんなに待たなくて済むと思います。諦めずに注文してください。

 さて、僕の書いた「ニンマ派、カギュ派、ゲルク派」の部分は、予定の枚数を大幅に超過してしまいました。何とか削ろうとしたのですが、大して縮まりませんでした。その中で、ニンマ派の短いテキストの原文と訳を載せたところ、専門的すぎるということでカットになりました。折角ですので、ここで復活したいと思います。

 ニンマ派は僕の専門ではないので、間違えもあるかもしれません。教えて頂けたら嬉しいです。

●ガラプ・ドルジェの遺言「要点を突く三つの言葉」

 ニンマ派の伝承の中で最初にニンマの教えを説いたのは、ガラプ・ドルジェだと言われるが、この人物の実在性は疑わしい。年代も書物によって釈尊が涅槃した後の数十年から数百年の間の紀元前に置かており、まちまちである。歴史的なことはさておき、ニンマ派の伝承によれば、ガラプ・ドルジェが虹の身体となって虚空の光明の中に溶け込んでいったとき、長年彼の元で学んできたマンジュシュリーミトラは嘆き悲しみ「師の光明が消えてしまったら、一体誰が世の闇を取り除くことができよう」と叫んだ。そのとき、ガラプ・ドルジェは虚空の光のマンダラの中から右手を伸ばした。その手の中に親指の先くらいの大きさの金色の小箱を持っていた。その金の小箱はマンジュシュリーミトラの周りを三度回って右手の上に落ちた。それを開いて中を見てみると、そこに「要点を突く三つの言葉」のテキストが入っていた。それは五つの宝石からなる板の上にラピスラズリを溶かしたインクで書かれていた。それを見ただけでマンジュシュリーミトラは師と同じ覚りを瞬時に得たのである。こうして、ゾクチェンの教えの伝承が始まったのである。

 その三つの言葉は極めて短く暗号のようなものである。ここでそれを詳しく注釈することはできないが、その雰囲気を伝えるべく、チベット語と、その直訳を載せ、簡潔な説明をつけることにしよう。

1.ngo rang thog tu sprad //
自分自身の(rang)本質(ngo)へと直接(thog tu)導かれる(ngo sprad)。

2.thag gcig thog tu bcad //
ただこれ一つ(gcig)であると決定的に(thog tu)確定する(thag bcad)。

3.gdeng grol thog tu bca' //
自己解脱(grol)への信頼(gdeng)を決定的に(thog tu)確立し留まり続ける(bca')。

【1.自分自身の本質とは、自己の中にある明知、原初の智慧である。まず最初に概念的な思考を排して直接にその本質へと師匠によって導かれよ。】

【2.さまざまな対立概念や多様性が現れても、本質はいつも一つである。その唯一の本質を決定的に確信せよ。】

【3.その本質から現れる一切の現象はそれ自身で解脱している。そのことに対する信頼を獲得して、そこに留まり続けよ。】

●「明知のカッコー」

 ヴァイローチャナは、シャーンタラクシタの元でチベットで最初に出家した七人のうちの一人であった。その後、インドでゾクチェンの成就者シュリーシンパに昼は顕教と密教、夜はゾクチェンの教えを学んだ。彼がチベットに持ち帰った最初のゾクチェンのテキストがこの「明知のカッコー」である。この話自体は伝説であるかもしれないが、このテキストは敦煌から発見されたために、確かに前伝期にゾクチェンの思想が存在していたことが分かる。カッコーは、明知の覚りを目覚めさせる鳴き声の比喩として用いられている。この詩は、六行からなるので、「六行の金剛詩」とも言われている。

1.sna tshogs rang bzhin mi gnyis kyang /
多様に現れたもの(sna tshogs)の本質(rang bzhin)は不二(mi gnyis)である。しかし(kyang)、

2.cha shas nyid du spros dang bral /
個々のもの(cha shas)はそれ自身において(nyid du)概念的虚構(spros)を離れている(dang bral)。

3.ji bzhin ba zhes mi rtog kyang /
あるがままのものであると(ji bzhin ba zhes)概念的思考で捉えることはできない(mi rtog)。そうであっても(kyang)、

4.rnam par snang mdzad kun tu bzang /
〔全てのものは〕形として(rnam par)現れる(snang mdzad)。全て(kun tu)良し(bzang)。

5.zin pas rtsol ba'i nad spangs te /
全てが完成しているので(zin pas)、努力の病(rtsol ba'i nad)を放棄して(spangs te)、

6.lhun gyis gnas pa bzhag pa yin /
自然な状態に(lhun gyis)留まること(gnas pa)が三昧状態(bzhag pa)である。

【1.現象的な世界は多様なものとして現れるが、その本質は不二のものである。いかなる差別も区別もない。多様性は相対的なもので、不二なる本質は全ての相対性を超えた絶対的なものである。】

【2.しかし、多様に現れている個々の存在も、根源的な唯一不二の基体が現れたものであるので、それ自体概念的虚構を離れて、ありのままに完全なものとして成立している。】

【3.あるがままのもの、すなわち存在の真相、あるいは真如は、概念的言語的に捉えることはできないが、】

【4.そうであっても、あらゆるものはあるがままで完全なものとして姿を現し続ける。それはそのままで全て完成されており、何も変える必要はない。rnam par snang mdzadは毘盧遮那仏、kun tu bzang poは普賢のチベット語名である。それをここでは、ゾクチェンの存在論として解釈している。】

【5.全ては最後まで完成されているので、それを変えようとしたり、何かを作り出そうとしたりする努力は止めなければならない。】

【6.全てが何の努力も作意も作り事もなく自然に現れてくる、そのような完成された状態にい続け、そのままで行動することが、三昧の状態にあることなのである。】

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新アジア仏教史第9巻「チベット」が出ました [チベット]

History_of_Asian_Buddhism.jpg ここ3年ほど関わってきた、佼成出版社のシリーズ『新アジア仏教史』チベットの巻が刊行されます。現時点での日本語で読める一番まとまった概説書だと思います。しかも、シリーズ中、このチベットの巻が一番厚いのでお買い得です。

 僕はゲルク派、カギュ派、ニンマ派の教義と歴史を書いています。チベット史とダライラマ14世の特論を石濱が担当しているほか、小野田先生や森雅秀先生、伏見英俊先生を始め、平岡宏一さん、野村正次郎さん、三宅伸一郎さん、岩尾一史さん他が執筆しています。

 監修は沖本克己先生ですが、編集は僕がやりました。序文を一部省略して挙げておきます。手元のファイルなので、本では少し手直ししています。

 また、目次のPDFをここにアップしておきます(URL間違ってました。修正しました。)。非常に中身の濃い本でしょう。是非読んでみて下さい。(Amazonでは配本はまだのようです。購入できるようになったらリンクを張ります。)

 もう一つ追加。本では長すぎでカットになった部分も別記事で公開しました

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 ここに地域の名前を取って「チベット仏教」と言ったが、それは「チベットに特有の仏教」という意味ではなく、「チベットで発展した仏教」という意味である。チベット仏教は後期インド仏教が直接伝わったところから始まった。その伝播は数世紀にわたって継続的に行われた。インドを代表する高僧や密教行者がこぞってチベット人に法を伝え、チベット人たちもまた積極的に法を求めてインドに留学した。
 チベット仏教を考える上で、その普遍性と特殊性を見極めることは重要である。チベット仏教の普遍性とは何であろうか。それはとりもなおさず仏教という教えの普遍性である。チベット仏教の本質は、インドの仏教そのものである。チベット人は、サンスクリット語仏典をできる限り正確にチベット語へと翻訳した。欽定の訳語集も制定され、訳語の統一が図られた。現存している仏典は、チベット語で残されているものが、他の言語を圧倒して多い。チベット人達はこれらの文献を取捨選択することなく、様々な言説を比較考量し、その矛盾点や相違点をも体系的に理解できるような論理的な解釈を構築した。それを、無数の学僧たちが何世代もかけて議論を戦わせて作り上げてきたのである。それが完璧であるとか、絶対的に正しいと言うつもりはないが、かれらが作り上げた仏教理解は、われわれが限られた時間と一部の文献を元に作り上げた理解を遙かに凌駕しているとは言えるであろう。
 仏教という思想が人類にとって普遍的な価値を持っていることは、近年のダライ・ラマ十四世の言動に明確に示されている。ダライ・ラマは、もともとチベット仏教の特殊性の具現化したものである。観音菩薩の化身がチベット人を救うために転生するという考え方はインドに直接由来するものではない。しかし、かれが現在の歴史的状況の中で示してきた人間としての価値は、そういった特殊性とは無縁の普遍的な智慧、仏教の価値観に基づく普遍的な人間のあり方である。
 チベット仏教の特殊性とは、仏教がチベットという特殊な環境で変容したという特殊性ではなく、チベットが仏教によって変容したという特殊性である。変わったのは仏教ではなくチベットである。チベットの歴史はすなわち仏教の歴史であり、政治の担い手も仏教思想の中で行動している。チベット語で書かれた膨大な文献のほとんどは仏教文献である。文学、美術、音楽なども仏教を主題としないものは少ない。チベットという国の全てが仏教によって貫かれ、またチベットの価値も仏教によって支えられている。全てが仏教という普遍的価値に献げられた国は他に例を見ない。
 現在、チベット仏教の僧侶たちは中国による侵略を逃れ、インドに亡命して、そこに寺院を再建している。考えてみれば、これは仏教が再びインドに帰還したのだと言うこともできよう。今や仏教は再びインドに戻って栄え始めたのである。これはチベット仏教であろうか、それともインド仏教であろうか。そのような問いはチベット人の誰も意識にさえ上せないであろう。彼らはかつての仏教そのままを今も維持していると考えているからである。
 本書は、そのようなチベット仏教の今について、様々な視点から詳しく、かつ分かりやすく紹介したものである。本書は単にチベット仏教の歴史を述べたものではない。歴史はもとより、各宗派の教義、美術史、世界に散らばっていた高僧たちの消息、僧院生活、宗教的行事、巡礼や灌頂、そしてチベット仏教を現代に具現しているダライラマ十四世についての特論など、いずれの章も過去のチベット仏教についての記述ではなく、現在生きているチベット仏教の諸相を理解するために必要な情報を提供している。
 これまでにも、何度かチベット仏教についての包括的概説書が書かれてきた。その多くは同じ執筆陣が繰り返し同じ内容をまとめたものであった。しかし、その後チベット仏教の研究は長足の進歩を遂げた。そのため本書では、ほとんどの執筆者を一新している。各執筆者はそれぞれ独自の視点で内容の取捨選択をして、今までにない斬新な切り口と、新たな情報を盛り込んでいる。その意味で、現在望みうるもっとも包括的なチベット仏教概説書であると言える。本書を、チベットとチベット仏教に関心のある全ての人に献げたいと思う。
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チベット語を教えてます [チベット]

 しばらくぶりの更新になります。2010年度が始まりました。今年度はさらにチベット仏教関係の授業や講読などが増えます。今のところは、一体どう時間のやりくりを付けるかも見当がつきませんが、求められるならば(時には押し売りのようにして)チベット語文献の読み方を教えたいと思っています。

 特に文献講読では、ツォンカパの中期の代表作の一つ『了義未了義分別・善説心髄 (drang nges legs bshad snying po』をテキストにして、東と西で同時並行的にやります。

1. 大谷大学での講読会
  火曜日18:00〜19:30
  『善説心髄』の前半、唯識のところ

2. 東京大学での授業(前期のみ)
  金曜日15:00〜16:40
  『善説心髄』の後半、中観のところ

それから、チベット語文語文法の入門の授業も両方でやります。

3. 大谷大学での授業(通年)
  月曜日13:00〜14:30

4. 東大での授業(後期のみ)
  金曜日15:00〜16:40

テキストは、John Rockwell, Jr. A Primer for Classical Literary Tibetan, Vol.1: The Grammer. を元にしながら、例文や問題は踏襲しつつ、解説・説明は日本語で新たな書き直した教科書を作っています。といっても、出版できるわけではないので、授業でプリントを配布するだけです。

このテキストはとてもおもしろくて、ミラレーパやガンポパ、クンサンラマの教えなどから引用がふんだんに用いられています。例文がみなチベット仏教ないしは仏教の基本的な教理に関するもので、教えていても説明が楽しい本です。

その他に、学生の必要に応じて読む予定にしているのは、授業や個人的な講読を含めて

・ドップター・リンチェンテンワ
・プラマーナヴィニシュチャヤのダルマリンチェン注
・ツォンカパのナーローの六法の解説『三信具足』
・ガンポパの『ラムリム・タルゲン』
・ロントンマワイケンゲの『中辺分別論』注

などなど。

チベット語ではないけれど、ダルマキールティのプラマーナ・ヴァールティカ第一章自注も読もうと思っています。一体どれだけこなせるのだろうか。計画倒れに終わらないように、参加する人はできるだけ協力してください。参加する人が予習をしっかりしていると、僕は楽できますから続けられるのです。
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真宗綜合研究所チベット研究班のメルマガ [チベット]

 大谷大学附属の真宗綜合研究所の研究組織の一つに、チベット研究班というのがあります。正式には「西蔵文献研究班」ですが、少々いかめしいので、「チベット研究班」と言っておきましょう。

 AppleのMacOSXに採用されているユニコード・チベット文字システムもここで開発しています。これのおかげでMacではとても快適にチベット文字が使えます。その話はまた別の機会にするとして、その他に、チベット語文献の入力プロジェクトをやっています。また北京版目録のオンライン検索もやってます。内外の研究者を招聘して公開講演会もやっています。講読会もしていますが、これはあまりアナウンスされていません。

 それに今度、若手の研究者を中心とした公開研究会を月に一回程度開催することにしました。この話は、先日のパネル「チベット仏教研究の可能性を探る」でもしました。

 そういう諸々の活動について、最新のアナウンスをするために、研究班ではメールマガジンを発行することにしました。一応、月一くらいの予定で、ただ研究会の予定などがありますので、不定期に発行します。近隣の方も、また遠方の方でも、関心のある人は、登録してください。こちらに案内があります

 ちなみにまだプログラムは確定していませんが、10月14日に第一回目の公開研究会を開催する予定です。あくまで予定ですので、確定次第メルマガで告知します。
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