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喜んでもらえるとうれしい [ゼミ・教育]

 ゼミの学生に、先生のゼミに来れて本当によかった、と言われた。これは教えている者からすると、とてもうれしい言葉だ。卒業式にはたいていそういう風に言ってもらえるが、そういう感傷的場面でなく、そう言ってもらえたわけだ。

 僕は確かに随分、学生の指導に手をかけている。全員の携帯のメールアドレスを把握し、ことある毎に全員に連絡をとり、いかなるときでもメールでの質問に応じ、卒論も進行の一々についてアドバイスをする。人によっては、五月蝿いと感じるだろうし、また過干渉だとも言うかもしれない。しかし、全員ではなくても、そうすることに答えてくれる学生がいるし、またそういう学生は、ゼミに入るまでの自分と比べて、勉強や研究に対する意欲、おもしろさが変わったと感じてくれる。

 もし僕と出会わなかったらどうなっていたか、と考えて、この出会いを喜んでくれている。つまり、それなりに努力している僕の側からすれば、その努力が報われたことになる。その喜びのために、努力していると言ってもいい。もちろん、そう言ってもらえなかったとしても、くじけることなくエネルギーを注ぎ続けはするだろうが、それでも、暖簾に腕押しでは、やはり一抹の寂しさを感じるだろう。

 そこまでではないにしも、僕は年度の最後に授業の感想を書いてもらうことが多い。そこでも、何らかの反応を期待し、それを読むのを楽しみにしている。しかし、そういう感想は、必ずしも手放しで喜べるわけではない。学生はどこかで教師の期待を感知して、それに副った「答案」を書いているきらいがあるのだ。もちろん、衷心から書いてくれている学生もいる。しかし、普段の授業態度と比して、少し殊勝すぎる感じがする。しかし、普段の会話の中でなされた発言は、心からのものだから、とりわけ感慨深いのだ。

 学生に心から喜んでもらえるために、僕はがんばっているのである。


丸写しではなく、自分の頭で考える [ゼミ・教育]

大学の教育で、無力感に苛まれることの一つに、学生のやる気のなさがある。とは言え、中にも真面目に取り組もうとう学生も少なくはない。そういう真面目な学生でも、レポートや卒論、研究発表などを見ると、どこかの言葉をそのまま引き写した、ないしは、ましな場合には、典拠を明示して引用するばかりで、自分で考えたことを書いている場合は非常に少ない。

 内容だけではない。表現も、その原本のままのもので、そんな言葉を自分では使わないだろう、という文章ばかりだ。だから、その内容についてつっこんで聞いたら、ほとんど答えられない、あるいは、正直に自分もよく分かりません、という答えが返ってくる。

 たとえば、PowerPointのプレゼンを作らせても、とりわけ最近はインターネットで検索して探し当てた文章を、そのままか少し要約してか載せている場合が多い。だから、それを口頭でプレゼンさせると、しどろもどろで、発音さえよくできない。口に出してみる、ということさえせずに、ということは、内容を理解することもなく、表面的に引き写しただけだということを示している。

 もちろん、そういう学生ばかりではないことは確かだ。僕の学科の2年生は一年間PowerPointのプレゼンを作る学科の必修の演習があり、学年末にクラスから2チームずつでて、優勝を決めるコンテストをやるが、そこに出場してくるようなチームは、プレゼンのできはともかく、さすがに内容がよくわからず、表面的に言葉を貼り付けただけ、ということはない。

 ちょっと話はずれるが、そういうチームに問題なのは、プレゼンの仕方である。冗長だったり、独りよがりだったり、飽きてしまったり、・・・、そう、みんな見る人の心に届くものをつくろうという意識がない。単に自分たちが調べたことを一つのまとまった作品に仕上げようとしているだけで、どうしたら、見ている人の心に届くか、を最優先して作るようなことはない。

 ある程度素材が集まり、全体として何を言いたいのか、何を訴えたいのか、が固まってきたら、あとは、どうしたら見ている人の心を捕まえられるかを考えてプレゼンを作っていかなければならない。言葉は少なく、説明も少なく、説明よりも、見るだけで分かって、印象に残り、一枚一枚のページが、次のページを見たくなるように誘導していく、というように作らなければならない。自分のことばかり考えていては、プレゼンは作れない。見る人の心にシンパシーを感じつつ作らなければならない。

 それはさておき、そういうプレゼンを作るとき、どうしたら、既存の表現をそのまま貼り付けないものが作れるのか。初めから、そういうことは大学生には無理だ、という意見もありうる。たかだか20才程度の知識と経験では、世の中で既に行われている議論や意見を越えることなんて、出来るはずはないではないか。卒論だって、新たな見解なんて、1、2年勉強しただけの学生に出せるわけないじゃないか。と思うかも知れない。

 しかし、それはやり方に問題があるのだ。もちろん、知識は限られるし、膨大な知識と習練の積み重ねの上で研究されるようなことは、期待すべくもない。だが、これまでにないオリジナルな何か、そしてそれを自分の頭で考え出す、ということだけだったら、それは不可能なことではない。

 世の中、必要だけど、お金にならないからやられていないというようなことは、たくさんある。ニッチ・ビジネスじゃないが、誰もが見向きもしないことに着目して、馬力でかんばれば、いくらでも、新しい見解や新しいものを作ることはできる。高度ではなくても、身近なところにそういう題材は転がっている。

 問題は、そういうテーマを見つけ出し、それに対して、従来の考えに囚われない自由な発想と、体験に基づいた直感とで取り組めるかということ、特にテーマの善し悪しが大事である。ここらへんは、何度かやっていくうちに、うまいテーマに出会えるかもしれないし、あるいは先生と相談しながら考えるとかが必要かも知れない。ただし、先生の発想では、従来の型にはまった考え方しか出来なくなる可能性があるので、それもほどほどにしなくてはならない。

 そういう、自由な発想をするには、単にテーマを前にして頭を抱えていても始まらない。一つの有効な方法は、グループ学習だ。企業でも新しい企画を考えるときには、一人ではやらせない。必ずチームを組んで企画を出したり、取り組ませたりする。それは複数の人が意見を出し合い、話し合うことで、一人では出てこなかった、予想もしなかった見方、考え方、とらえ方ができるようになるからである。

 しかも、単にグループでやればいいというわけではない。そのための技法が企業では、「ブレーンストーミング」や「KJ法」などが使われている。そして、それを大学教育用にアレンジした方法を、大谷大学では今年度の新入生から必修の授業で教える試みが始まっている。これは、予想以上に効果のあがりそうな方法である。一年生がグループで意見を出し合い、一つのテーマについて、考え方を広げていく様子をみていると、それと比べて、同じようにグループでプレゼンを作ることになっている2年生が、集まっても、みんなほとんど口をきけず、話し合いが先に進まないのを見ていると、最初にこういう技法をトレーニングしているのとしていないのの違いが、はっきりと見て取れる。

 もちろん、この試みは始まったばかりで、かれらが2年生、3年生、4年生になったとき、専門の科目でどういう卒論や研究発表をするかを見なければ、最終的な判断はできないが、うまく育てれば、今までにない、活気のある大学生の研究ができるのではないかと思う。


プレゼンを作るのに時間がかかりすぎる [ゼミ・教育]

 今、僕の担当している2年生のクラスと、3年生のゼミとで、「人文情報学科をアピールする」というテーマでPowerPointのプレゼンを作ってもらっている。同じテーマを2年生と3年生でやるとは、手抜きだ、という意見もあろうが、それは深謀遠慮の故あることなので、単純な手抜きのわけではない。

 プレゼンは、6、7名のグループを作り、グループ毎に相談しながら作ることにしている。グループで意見を出し合うことで、一人では出てこない様々な意見やアイデアを集められるところに利点がある(はずである)。

 このテーマを始めたのは、4月の下旬からだった。もうかれこれ1月半がたっている。来週にはいずれも成果を発表することになっているのだが、ほとんどのグループがプレゼンを完成させられないでいる。発表が迫っている今週から来週の前半にかけては、授業時間以外にグループのメンバーが時間を都合して集まって、2コマなり3コマなり作業をしている。

 2年生のクラスは、前にも書いたが、必修の授業でクラスもグループも学生番号に基づき規則的に決められたものだ。そのためメンバーは打ち解けていないので、意見を出し合うのは難しいし、その上、必修であるため意欲に欠けている学生もいて、作業は難航していた。

 一方、3回生の方は、ゼミの仲間だし、最初から僕のゼミを選択していることで、似たような志向の学生が集まっているため、グループ内での人間関係は良好だった。

 しかし、いずれの学年もプレゼンの制作そのものには、ものすごく時間がかかっている。一月半で、約10分ほどのプレゼンを作れないというのは、時間がかかりすぎではないだろうか。どうして、このようなことになってしまったのだろうか。

 一つには、グループで調整しながらやることのマイナス面が出てしまっているのだろう。つまり、一人で好きにやれるのと違って、意見を調整したり、他の人の意見を気にしながら作業しなければならないので、効率が非常に悪い。そのためほとんどのグループは、部分毎にページを分割して、それぞれが作ったものを後で一つの書類にまとめる、というやり方をとっている。しかし、そうすると、それぞれの分担の中に重複した内容が出てきたり、統一をとるのが難しいような表現の仕方になったりし、決して誉められたものではない。

 また、テーマも難しすぎたようだ。無理なテーマというわけではないが、そもそも「人文情報学科」とは何か、その長所は何か、ということを考えることは、教員の方だって、説得力のある意見、人に分かるような意見を持っているわけではないので、まだ勉強途中の学生が何か新しいことを考え出せるはずがない。いきおい、大学のパンフレットやネット上の情報に頼ることになる。ところが、大学の公式ホームページは、大学の入試用パンフレットの内容をほぼそのまま載せているだけだし、それも何年も変化のない、抽象的な謳い文句だ。だから、自分たちの学んでいることとリンクしない。

 そして、このように内部でもよく分からないことが、それ以外の人たちが何か分かっているはずもなく、したがって、その公式サイト以外には、頼りになる情報源はない。何らかの情報を探してきて、それを要約するなり書き写すなりすれば、レポートが出来上がる、というようなやり方では、このテーマでプレゼンを作ることはできない。そうすると、意見はでないか、出てもみな同じようなものになってしまい、話を展開していくだけの素材が揃わない。

 普通、僕らがプレゼンを作る場合には、スキャナで画像を取り込んだり、デジカメで写真を撮ったりして、それらを適当に並べ、簡単なキャプションや各ページのキャッチコピーを書き込んでいって、あとは、アニメーションを設定していく。これで、2、3日の作業である。

 また、今学科全体のWebサイトのデザインや内容を考えているが、これは試行錯誤があって、大まかなアウトラインが出来上がるのには、やはり2、3日の作業である。

 こんな風に考えてみると、最大のネックは、そのテーマについてどんどんアイデアが出るようなテーマでないと、プレゼンを作るのは難しいということにある。もちろん、簡単なものばかりやっていては、何も身に付かないので、難しいものに挑戦するのは悪いことではない。少し無理目なものにぶつかることで、いろいろと勉強になる。たとえ、バランスが悪くても、自分の頭で考え、自分の言葉で表現できたものが、最終的には残るのである。忙しいなかを集まって仕上げをしなければならないのは、負担が大きいだろうが、その分、出来上がったときの喜びも大きいだろうから、それを目指してがんばって欲しい。きっと次のステップに(3回生は本当の学科のオフィシャルWebサイトを作る)プラスになるはずだ。


大学での単位の換算についての衝撃の事実 [ゼミ・教育]

 衝撃と言っても、僕が衝撃を受けたわけではなく、これを見ている大学生の皆さんにとって衝撃の事実ではないだろうか、という意味である。

 文科省の規定では、大学の講義・演習の1単位は、1時間の授業に2時間の教室外での自習(つまり予習・復習)で計3時間の学習を15週(これは半年ね。)で取れることになっている。

 普通、大学の授業は一回に2時間やっていることになっているので、1週に2時間の授業と4時間の自習で計6時間を15週やることで、2単位がもらえる。まあ、すでに2時間(これは2コマという意味ではなく、120分という時間の長さだ。)の授業が、90分に短縮されて、これで120分の授業をやったことになっている辺り、水増しっぽくなっているのだが。

 また、最初から15週授業をやるような学年歴にもなっていない。最大13週程度だろう。それにテスト期間を含めてやっと14週というところか。

 これをどう捉えるか。この規定は現実を無視している、ないしはこんなことはやってられない、あまりに現実離れした規定だ、ということもできるだろう。だが、一体どうしてこういう換算が出てきたのだろうか。何の意味もなく現実離れをした真面目一本槍の官僚が決めてしまったまま、改訂されずに今に至るまで来ているのだろうか。

 あるとき、授業のコマ数を何とか増やすために、授業時間を5分削り、昼休みを無くして、一日にできるコマ数を増やそうという案が出された。しかし、ただでさえ、90分を「2時間」の授業とサバ読んでいるのだから、さらにそれを85分で「2時間」授業とすることはできない、という文科省の指導で却下されたことがある。

 つまり、できれば、この規定を遵守する、ないしは近づけてほしいと文科省は考えているのだろう。今は、休講もできるだけしない方向にある。それでも、昔ながらののんびりした先生は、余り気にせず休講をし、また学期の最初や最後は、挨拶くらいで直ぐに授業を切り上げてしまう先生もいるだろう。東大では、学期の最初の週から授業やると、それは熱心すぎる教師として白い目で見られた。

 僕は、大病でもしない限り、休講はしない、というのは、何も文科省の指導方針に従っているわけではなく、ある到達目標に何とか近づいてもらいたいが故に時間を惜しんでいる。大事な回を休んだ学生には補講もする!! そんな大学教師は滅多にいないだろう。そもそも、お金をもらうもらわないに関係なく、講読会やサブゼミや時間外指導をしているし、1週間に1回の演習では足りないので、その間にコンピュータに触れてもらうべく、課題やテストを頻繁にやっているし、夏休みには毎週課題を出して、間が空かないようにしているのは、文科省の規定を墨守しているかのようだ。

 別に官僚の言うことを聞きたいわけではない。しかし、大学生が勉強することが仕事であり、何かの合間に授業に出ることが大学生の勉強であったわけではない、ということは、肝に銘じておいてほしいと思う。


教えることができないこと [ゼミ・教育]

 大哲学者カントは、哲学は教えることはできない、教えることが出来るのは「哲学すること」だけである、と言った。そう。学問(大学での勉強)には、教えることが出来ることと教えることが出来ないことがあるのである。

 大学での勉強には、教えられること・教えてもらえることと、教えられないこととが混在している。その区別を付けられる学生は、必ずしも多くはない。それが分かるようになった学生は、大学での学問を有効に身に付けて卒業していくことができるのである。

 教えられることは、本に書いてあるような、既に確立された、基礎的な知識である。これは、より高度になってはいるが、高校までの勉強の延長だと言っていい。何事にせよ、その学問の基礎的な知識や方法、文献資料のありか、などを知らなければ、研究はできない。これらは、知識の伝達として、授業で、あるいは授業外で先生や先輩から教えてもらうことだ。前にも書いたように、大学の授業は、きっかけをつくるだけで、本当には自分で調べなければならないが、それでも調べて分かるようなことは、知識に属するものであり、調べることによって、本なりネットなりに教えてもらったと考えていい。これは機械的に、やればやっただけ自分の中に蓄積していくものである。

 しかし、そうして蓄積した知識、あるいは調べたことに基づいて、何らかの自分なりの考えを作り上げることは、他の人から教えられるようなものではない。本人が、あれこれと試行錯誤して考えて行くことで作り上げていくしかないものである。そしてそれができないと、卒論執筆のような、自分の側から発想したり表現したりすることが出来ないのである。ここにレポートと論文の違いがある。レポートは調べたことを書く。論文は、調べたことの先に、それに基づいて、自分の意見を書かなければならない。調べることは前提だが、それは論文の本筋にはならない。そこから先の、考えたことのみが論文で書く意味のある部分なのだ。

 長いレポートにしかなっていないような卒論が、世の中にどれだけあるかを考えれば、この「考えること」を体得できた人が少ないことが分かる。教えてもらえないようなことは、できるようにならない、ということなのだろう。

 教えてもらうことは、受け身ですむので、単に一定の手順と時間をかければ、自然に進んでいく。それに対して、自分の考えを作り出すことは、それこそ、何もないところ、それまでにないもの、自分独自のものを作り出すわけだから、非常に難しく、苦しい作業になる。苦しくても、それができたときには、無上の喜びを感じるのだから、単に苦しいだけのものではない。しかし、その過程は、とても辛い、抵抗感のある作業になるので、最後までやり遂げずに途中で放棄してしまう学生が大部分である。

 僕の学科では、二年生のゼミに当たる授業で、7名程度のグループを作り、そのグループで一つの課題を追求して、その結果をPowerPointでプレゼンする、ということをする。僕は、最初は、自分の学科について振り返ってもらう意味で、「人文情報学科を高校生にアピールするためのプレゼンを作る」というテーマでプレゼンを作ってもらっている。

 これは、身近な話題だとは思うが、いざ、やり始めてみると、どうしたらいいか分からず、グループでの話し合いは沈黙に終始する。必修の授業なので、仕方なく受けていて、積極的に取り組もうという動機が乏しいという事情もある。しかし、難しくなければ、もう少し積極的に参加するような人まで、何もできないままに頭をかかえているのだ。

 最近、僕は次のような文句というか抗議を受けた。「学生にやれ、と言って任しているけれども、それは一見、僕たちに期待しているかのように見えて、実際は、〔教えるべきことを教えずに全部学生に〕押しつけているだけではないか。僕たちはプレゼンをしたことがないのだから、最初から少しずつ基本的なことを教えていってもらわないとできない。授業中に終わらない部分は、授業以外に集まってやれと言われたって、僕たちもバイトがあったりで忙しいし、無理な注文だ。」

 実際には、彼らが期待しているようなことは、教えることの出来ないものなのだ。やはり、個々のテーマについて、いろいろ話し合うことで、自分たちで作っていかなければならないことなのだ。僕の役割は、ちょうど、産婆術のように、側面からアドバイスや示唆をすることで、議論や考えを展開していくのの背中を押してあげるだけだ。ということを分かってもらうには、どうすればいいかは、ちょうど「哲学」ではなく「哲学すること」を教えられるように、その手順を教えることはできるはずなのだが、そのことについては、また後日書くことにしよう。


卒論は授業とは違う [ゼミ・教育]

小学生1年生(幼稚園生を入れれば、もっと長い)から16年間も続けてきた学習生活の最後に位置しているのが、この卒論・卒業製作である。そうでない人もいるのはもちろんだが、大学生であれば、16年以上の学校での勉強の、これが最後の課題である。最近は卒論なしの大学や学部も出てきてはいるし、大学生には大したことはできるわけもないのだから、卒論なんて止めてしまえ、という意見もあり得るが、僕はそうは思わない。

 卒論というのは、確かに学校生活の締めくくりだが、締めくくりにふさわしく、それまでの授業とは全く違う性格のものだ、ということをまずは頭に叩き込んでおこう。それまでの長い16年間、ほとんどの授業は先生の方から与えられるものだった。授業は決まった時間があり、決まった時間に付随する(仕方なくやる)予習や復習、宿題、試験勉強があった。いずれも、課題も含めて、決められたこと、言われたことをやってきたわけだ。つまり流れは先生の方から生徒の方へだった。

 それに対して、卒論では、始めてその流れが逆になる。学生が先生や回り(どの程度の「回り」かは、その卒論のできにもよる。)に対して、自らの意見・見解を伝えるものだ。この逆転をきちんと理解していないと、それまでの16年間の習慣は、ちょっとやそっとではぬぐい去ることはできない。で、それまで何度も書かされてレポートのやや長いものを書いて、卒論です、と提出することになる。それは締めくくりをきちんとせずに学校生活を終わりにすることを意味する。16年間慣れてきたやり方を、覆すのは並大抵のことではない。

 われわれ研究者は、実は、その卒論と同じようなことをずっと追求している。大学生は、そういう研究者と同じことを始めて実践しなければならないのだ。それは、専門の研究者と同じレヴェルのものを書く、ということではない。ただ、その姿勢は同じものだ。

 ぼくらは、研究を時間を決めてやっているわけではない。どこかに通って、一時間とか二時間すわって一つの仕事をやるように研究をしているわけではない。一つの研究に取りかかったとき、一つのプログラムを作るとき、時間は締め切りという最終時間以外には、時間の制約は全くない。四六時中、そのことを考え、そしてメモをとり、時間に関係なく図書館に調べに行く。

 これまでの学校生活で、勉強というのは、どこかに通って一定の決められた時間の作業をすることだったはずだ。しかし、卒論には提出期限という締め切りがあるだけで、時間の制約はない。どれだけやるかは、その人の取り組む姿勢にかかっている。一定の時間の拘束、というのは、これまでの、受け身の、与えられるだけの授業の考え方だ。卒論は、与えられるものではない。自分で追求するものだ。研究者が誰かに言われたり、決められたりして研究しているわけではなく、本人の意志でテーマを追求しているのと同じだ。

 つまり、大学四年生は、バイトや遊びの空いた時間に卒論をやればいいのではない。四六時中が卒論を準備し研究時間なのだ。思い出したように、やればいいのではないし、最後にぎりぎりになって、書き直す暇もなく、最初から書き下ろしただけで終わりにしてしまえるようなものではない。

 自分の時間を全て卒論に捧げるべきだ。その合間に、バイトや他のことを多少はやってもいい。しかし、その逆では決してない。遊んでいる暇はない。単位を大部分取ったから、四年生は楽になって、学生生活最後のサークルや旅行やバカンスを楽しむ、というような甘いものではない。それだけの力を卒論に注ぐかどうかは、それまでの長い学生生活の締めくくりをきちんとつけられるかどうかを決めるものである。

 とにかく、あるゆる時間を卒論につぎ込もう、と何度も言い聞かせて、それまでの受け身の学生生活の習慣を根底から覆そう。


小さい企業でも需要はある。 [ゼミ・教育]

 大学四年生の就活の成果はどうだろうか。そろそろ内定をもらえる時期だろう。しかし、今日ここで僕が書こうと思うのは、内定がまだ取れずに焦っている人たちについてだ。

 試験や面接で落ち続けている人は、もしかしたら、有名企業ばかりにエントリーしている人はいないだろうか。大学生の経験から企業を考えたとき、まず頭に浮かぶのは、当然、自分の生活で目につく企業であり、それはたいてい大企業である。そういうところで働いてみたい、という夢もある。

 大きい企業に向かう理由は他にもある。大きい企業は採用人数が多いので、自分が通る可能性も大きいのではないか。あるいは、寄らば大樹で、将来を考えた場合、安定した会社の方がよく、大企業なら安心だ。営業所が各所にあるので、自宅から近いところに通える可能性が大きい。などなど。

 だが、今の世の中、ずっと一つの企業でやっていけるのだろうか。特にコンピュータ関連の仕事ならなおさらだ。(これは僕の所属する人文情報学科の学生を念頭に置いているので、IT関係の就職先の話になっている。)変転の激しいこの業界は、むしろ、会社で技術やノウハウ、人脈などを身に付け、それなりの能力を身に付けたときには別の勤め先に移ることも、最初から視野に入れておいた方がいい。

 前に「小さい会社がいい」という記事を書いた。それにもう少し付け加えておきたい。

 世の中には中小の企業が山のようにある。そういうところは、大手と違って専門の情報処理の要員を置いておけないし、発注にお金をかけるわけにも行かない。それでもこれからコンピュータ処理は、インターネットを始め、どんどん浸透してくる。そういう需要は決してなくならないどころか、今後は増えていくだろう。しかし、それは大手のソフト会社に依頼することはできない。小さいところの必要なことに対応したようなことはなかなかやってもらえないし、お金もかかる。

 そういう企業のIT関係の需要を処理するのは、これは小さい情報関係企業、あるいは個人でやっているような会社なのだ。そういうところは、中小企業が必要としているようなIT導入を、それぞれの必要に応じて対応してくれる(と期待される)。この需要は決して減るものではない。そういう地道なサービスは、むしろ、個々の現場に密着した作業になるので、非常におもしろい。小さいソフト会社なら、一つのプロジェクトを少人数で処理するので、一人の人が様々な役割を担うことになり、オールランドな経験を積むことが出来る。小さくても、そういうソフト会社は儲かるので、給料はいいだろう(これは憶測。確認はしていない。)。

 総勢50人以下の企業で、そういうおもしろそうな会社を探すのがいい。小さくても、しっかりした会社に目を向けてみよう。大手に行っても何もおもしろいことはない。小さいところに行って、一つ一つのプロジェクトに大きな役割を果たし、様々な技術を身に付け、そして独立する、こんな夢を持つのもいいのではないだろうか。

 そんなことを考えていたら、今日の朝日新聞夕刊に「1円起業の人々」という連載があった。その中でホームページ制作会社を立ち上げた31才の人の話が載っていた。その人は務めていた会社が、効率優先に走り、

短い納期、少ない予算で数をこなすよう求められ、疲れ果てて退職した。勤めを変え、自分の人脈で仕事が取れると分かったことで、「会社にいる意味はもうない」と脱サラを決めた。
昨年10月、資本金10万円でホームページ制作会社の「ウェブラボ」をつくった。取引先の会社や工場を自分の目でみたうえでホームページの構成を決める作業に1ヶ月はかける。手間はかかるが、「よい仕事をした実績が次の受注につながる。こんな仕事がしたかった」。
起業から半年たった3月には300万円への増資を果たして、最低資本金の特例から「卒業」した。(朝日新聞2005年5月13日夕刊)

まさに、上に僕が薦めた生き方をそのまま実践したような人だ。こういう道もあることを忘れないでほしい。


Knoppixを再度カスタマイズ中 [ゼミ・教育]

 授業で使うためのKnoppixを、3.8.1が出たついでに(これまでは3.7をベースにしていた)、改良を加え、さらに使えそうなものをインストールしてカスタマイズをしている。

 Linux WorldでのKnoppix-eduの配布にも大谷大学版として参加させてもらいたいと思い、できるだけ手を加えようとしたものだから、なかなか終わらない。何をインストールし、何を削除したか(全部をきちん記録していないんだが。)のドキュメントも作ろうと思う。

 今回は、前回のものに加え、PerlのXML関係のパッケージをいくつかインストールした。

 さらに、xalan-C++もインストールしてあるので、xsltを簡単に処理である。

 Javaは大学外での配布ということもあり、Sunの純正JDKではなく、GNUのgcjという、Java言語から機械語に直接直すソフトをインストールした。これは、Javaの純粋な言語部分はおおよそサポートしているが、GUIの方はまだまだらしい。現在授業で使っている結城本には十分対応できる。

 Emacsもカスタマイズしている。TeXのためにはYaTeXをインストールし、HTMLのためには、その一部YaHTMLを使い、PHP、Perl、Python、Ruby、CSS、Javascriptなどのためのモードもインストール、設定した。

 また、Apache、MySQLを起動するスクリプト、フロッピーからファイルをコピーするスクリプト、Firefox用のプロキシ設定、シフトJISとEUC-JPの文字コード変換用のスクリプトなども作成した。ほとんどが授業で使うために面倒な入力をしないで済むためのものだ。

 また、これは僕の趣味だがScheme処理系であるGaucheもインストールした。

 一方、大きいところではOpenOffice.orgは削除、Firefoxは最新版に入れ替え、Pythonも2.4のdebパッケージをインストール、Windowsエミュレーション、開発環境なども削除してスペースを確保した。特にOpenOffice.orgを削除するということが、僕のカスタマイズの大きな特徴だろう。要するに、Windowsの代替ではなく、オーソドックスなコマンドラインペースのUnix学習のためのKnoppix環境を目指している。

 と言っても、まだ作業中で、CD-ROMイメージを作ってテストしてみれば、意図通りに動かないところが多数あるだろう。そして、CD-ROMのレーベルも作成しなければならない。たいへんだ。


学科をアピールする(その2) [ゼミ・教育]

学科をアピールする、という課題に、3年生はどのように取り組んでいるのだろうか。

 まず、ネット上でのデータの探し方も、2年生よりは詳しくなっている。もちろん、公式見解のページはもちろんだが、各ゼミや教員のホームページも参照している。ただし、量的に言うと僕のページが圧倒的に多いので、人文情報学科に対する見方は、僕の見方が公式見解以上に情報豊富になってしまう。しかし、実際には同じ学科にいても、他の先生方は違った考え方、違った目論見を持っているので、僕の意見なり解釈なりで、学科全体の紹介と言うわけにはいかない。

 次に、同じような内容で同じような謳い文句の、競合他校のホームページを調べている。それとの比較や対比で、人文情報学科を特徴付けることができるかもしれない。実は、同じような志向を持つ学科の中では、ここは最も早くに作られたところである。しかし、その後、似たような学科が増えてきたので、それらとの差別化を模索する必要がある。地理的なこと、入学する層、伝統的な文学部に所属することなどから、他のものとはバッティングしない特徴を主張することができると思われる。それを探ってほしい。

 また、過去の入試用パンフレットとの学科紹介全部を、入学センターから借り出してきた。これも公式見解であるが、同時に過去の歴史を述べるときに役に立つ。

 もちろん、講義概要も参考にしている。

 また、就職情報もネットから検索していきている。学内の進路・就職センターにも行ったらしいが、詳しいことは個人情報ということで、教えてもらえなかったようた。

 全てにおいて、3年生は2年生より広いソースを調べているし、そこから、人文情報学科のアピールしたい点についても、それなりに意見は出てきているようだ。

 次の作業は、これらの資料を全部カードに書いて、それらをどう料理するか、ということについて、グループで話会う。そこで出てきたアイデアや意見・解釈も、カードに一枚一項目で書き出していく。そうして書き出したカードを様々な組み合わせ、整理し、まとめ、相互の関係を図示していくことで、自分たちのオリジナルなアピールを作り上げていければと思う。


学科をアピールする [ゼミ・教育]

 僕の大学の学科では、2年生は単純に学生番号で区切ってクラスを作って一般的な学科の研究方法を学び、3年生になって、それぞれが希望のゼミに属して卒論に向けての準備をしていく、という体制になっている(そういうところが多いだろう。)

 この2年生と3年生の間にも1年の差が見られる。大学教育というのが、どの程度効果を持っているのかは分からないが、この差を考えると、何らかの効果を学生の精神に及ぼしているようである。

 いずれの授業でも、僕はグループ学習を取り入れ、6人程度の班を作り、その中でいろいろ相談をしながら課題を調べ、それについてのプレゼンテーションを作っていく、という方法をとっている。卒論に必要な専門的な知識や技術などは他の演習などで学んでもらうことにして、これらのクラス・ゼミでは、どのようにしてデータを集め、集めたものからオリジナルな発想を導きだし、それらをどのように組み立てて、他人に対して発表するか、という技法を学んでもらおうと思っている。

 そのときの格好のテーマが、「人文情報学科をどのようにアピールするか」というテーマである。そもそも、この学科に入ってきても、学生たちはそれが何を学ぶところで、それが他とどう違い、その中で自分は何を目指したらいいか、ということが、皆目分かっていない。別に学生だけではなく、世間も分かっていないだろう。世間には、高校生やその家族、高校の先生も含まれる。それどころか、たぶん、大学でも他の学科の先生や事務方は分かっていないと思う。

 分かっていないので、大学が作成する学科紹介のパンフレットやホームページなども、それを読めば分かるようにはなっていない。学科改変の会議があっても、もしそこに人文情報学科の先生が入っていなかったら、全く理解されていないような案が出てきたりする。

 そういう中で、まずは1年と少し学科で勉強してきて、単位もとり、また科目の履修のために講義概要も読んでいる2年生に、自分たちが属している学科を、高校生向けにオープンキャンパスで説明するためのPowerPointのプレゼンテーションを作ってもらっている(ただし、これは今年度から始めたことだ。)。今の学生は、図書館で調べる、ないしはそれ以外のところに出て行って調べる、ということが苦手で、ほとんどパソコンに前に座って、ネットの検索をしている。「人文情報学科」というようなキーワードで検索をかける。

 もちろん、先に述べたように、世間はよく分かっていないから、ネットで検索してもろくな情報は出てこない。ほとんどが大学の公式の学科紹介のページしか探し当てられない。そして次の一歩が踏み出せない。そういう公式のページから抽象的な見解を引いてきたところで、結局分からないことには変わりはない。

 まだ現状では、こういうデータ集めの段階だが、次には、それを元に自分たちの意見を導き出し、そういう公式の言葉ではない、自分たちの論理で物事を考えていき、それを表現する練習になっていけばと思う。その一歩を踏み出すのはなかなか難しいのだが。

 3年生のやり方については、また明日続編を書こう。


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